2005年07月24日(日) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂40 |
文化四年には冬大阪の持明院で田能村竹田と四十日間同宿している。 翌文化五年六十四才のとき奥羽への旅にでた。このときは江戸へ出てから五月に水戸の立原翆軒を訪ね、会津の秋琴宅へ立ち寄った。七月には飛騨の国学者田中大秀を訪ね、赤田臥牛と知り合った。飛騨高山には百日ほど滞在し酒造家蒲を訪ねて絵をかいている。 秋に飛騨を後にし金沢へ向かった。加賀では前田藩の寺島応養を訪ねこの地に百日ほど滞在した。十二月六日には加賀を発ち再び会津へ向かった。 文化八年、あしかけ四年に及ぶ奥羽放浪の旅を終えて京へ帰り柳馬場御池上がるに仮寓した。七月には加古川、姫路への小旅行をしている。 文化十年には「平安人物志」に玉堂の名前が春琴とともに載った。これは当時の京都著名人の人名録である。既に春琴は流行画家として有名になっていたが、父子ともども京の芸壇に認知されたことは浦上家の慶事であった。玉堂は六十九才になっていた。この頃は柳馬場二条に定住して絵にかなりの時間を割いていた。 旅を重ねて行く中で玉堂の心身からは、俗世の垢は剥落していき、物欲俗情は削ぎ落とされて心身は自然と同化していくのであった。いつしか無為自然の老荘的な生き方になっていったのである。 漁隠(後集) 身与鶴倶痩 心将鴎共閑 一生何活計 詩酒釣琴間 身は鶴と倶に痩せ 心は鴎と共に閑かなり 一生何の活計ぞ 詩酒釣琴の間 身体はまるで鶴のように痩せ、心はあの大空を飛ぶ鴎のようにゆったりと静かである。いったいどのようにして生きているのかといえば、それはまさに詩と酒と釣りと琴の生活である。 京阪では木村拳霞堂、浦上玉堂・春琴父子、岡田米山人、頼山陽等と交流した。 この大阪持明院における合宿稽古場での二人の交歓の様子を竹田は「竹田荘詩話」の中に次のように書き残している。なお竹田は玉堂より三十二才年下であった。 <丁卯ノ冬 琴ヲ善クスル玉堂老人 余ト始クテ大阪府ノ持明院ニテ相見ユ 寝食ヲ同ジクスルコト四十日に殆シ 時ニ年六十余 毛髪尽(ことごと)ク白く 鬚(あごひげ)長キコト数寸 而シテ猶 童顔有リ 歌声円滑ニシテ 歯豁(ひら)クモ音を妨ゲズ 亦奇士ナリ 特ニ酒ヲ好ム 酔エバ則チ小詩ヲ賦シ 毎首スナワチ琴ノ字ヲ用ウ 又 小景ノ山水ヲ作リ 皴擦甚ダ勤メ 倶ニ俗ニ入ラズ頗(すこぶ)ル趣勝ヲ以テス 酔後ノ一絶ヲ記シテ言ワク> 倦酒倦琴倚檻時 満園祇樹雪華飛 雪華個々風吹去 不染琴糸染鬢糸 酒に倦み琴に倦み 檻(てすり)に倚る時 満園祇樹 雪華飛び 雪華個々 風吹き去る 琴糸を染めず 鬢糸を染む 酒は飲み飽き、琴にも弾き飽きて、僧坊の手すりに寄り掛かって、寺院の庭を眺めてみると、折から降りだした雪が庭の木々に花のように舞い落ちている。風が吹くと雪片はあおられて飛び去っていく。琴の糸には雪も積もらないが 鬢毛には雪が付着した髭を白く染めていくのだ。 <余 偶(たまたま)客トナリテ 填詩(てんし)数首ニ余ル 老人 廼(すなわ)チ之ニ配スルニ 其ノ音ヲ階シ 嗚咽愴苑(おえつそうえん) 左右聴(みみ)ヲ聳(そば)ダツ 今 小令一○ヲ録シテ言ウ 紫燕飛ビ白燕飛ビ 飛ビ上リテ 紗窗越エテ女ノ機 双々別離無ク 天非トセズ 人非トセズ 只 是儂清ク思 微カナルニ因ル 檀郎 未ダ知ルヲ得ズ 爾後 萍ト梗ト遠ク離レ 音問終ニ絶ユ 東讃帳竹石山人徴ス 嘗テ玉堂詩集一巻ヲ揖シ刻ンデ世ニ伝ウ> 私はたまたま玉堂の客となり、琴の曲目に合わせて詩を数首作った。玉堂老人は直ちにこの詩に合わせて琴を弾いたが、感極まって嘆き悲しみ泣き崩れた。私はびっくりして左右の耳を欹てて聞いていた。私はこの時の印象を次のような短い歌詞として記しておくことにしよう。 自然界を観察すれば紫色した燕と白色の燕は、しきりに飛びかって絹張りした窓をすり抜け、春琴の新妻が機織りしている所へ集まっていくようだ。ここへ集まる燕達は心優しい新妻に可愛がられて、お互いに別れていくことはない。このような小鳥と人との交流は天も認めることだろう。ましてや人間であれば誰でも生き物を愛護する優しい気持ちは尊いものとみるだろう。私もこのようなほのぼのとした愛情のやりとりは清らかで好ましいものだと思う。それにつけても、新夫の春琴はこの優しい新妻の愛情にまだ気づいていない。今回の合宿が終わってしまうと浮き草のように放浪する玉堂と土塊のような私、竹田とは遠く離れて音沙汰もままならなくなってしまうのだろうか。東讃岐の長町竹石がこのやりとりを知っていてやがて明らかにするだろう。何故なら彼はかつて玉堂が詩集第一集を編集し出版したとき中心になって活動した人物なのだから。
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