2005年07月25日(月) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂41 |
この詩の中で玉堂が「嗚咽愴苑」したのは三十才以上も年下の竹田が、自分と同じように藩から建言を受け入れられず、致仕して風雅の道に入り、今こうして私とともに起居しながら稽古をしている。境遇の似た者同志が気持ちを通じ合ってお互いを理解しあっている。そう考えると気脈の通じた嬉しさがこみ上げてきて、感情が爆発し嗚咽したのであるが、一旦爆発してしまうと若い竹田の境遇がかって苦労した玉堂の脱藩時の苦しみと重なってとめどなく涙がでてきたのである。 竹田は、別にその著「竹田荘師友画録」と「山中人饒舌」の中で画家玉堂のフロフィールを次のように書き止めている。 <毎朝 早ニ起キ 室ヲ払イ 香ヲ梵キ 琴ヲ鼓チ 卯飲三爵ス 常ニ曰ウ 若シ天子勅アラバ 音律ヲ考正シ 我 焉(これ)トトモニ有ラン 必ズ其ノ力ヲ致ス > 毎朝早く起きだして、部屋の掃除をし、香を焚いて、琴を弾き六時頃には杯三ばいの酒を飲む。もし天皇から勅命が下って、音楽のことを研究せよと仰せなら私は寝食を忘れて取り組み、必ず成果を挙げる自信をもっている。 <古人ノ書画ハ 飲興ヲ借リテ作レルモノアリ 紀玉堂 亦然リ 蓋シ酔中ニ 天趣有リテ 人ヨリ異ル為ナリ 紀ハ酣飲シテ始メテ適シ 落墨 尾々トシテ休マズ 稍 醒ムレバ則チ一幅ヲ輟(とど)メ 或イハ 十余酔ヲ経テ 甫(はじめ)テ 成ル 其ノ合作ニ至ルヤ 人神ヲシテ往カシメ 之ヲ掬スモ渇(つく)サズ 但 極酔ノ時 放筆頽然 屋宇樹石(おくゆじゅせき) 模糊トシテ 弁別スベカラザルナリ> 昔の人の書画は、酒を飲んだとき沸き上がる興趣に基づいて作ったものがある。玉堂もそうである。酔っているときこそ天与の才能が発揮できるのだ。人よりこの辺りが異なっているところなのだ。玉堂は酒を楽しんで飲んでこそ始めて良い絵が描けるし、絵に墨を入れていくにしても飽きることなく続けられるのだ。酔いが覚めた頃には一幅の絵が出来上がっている。或いは十回程も酔ってからの方が優れた絵が描ける。合作する場合などには、心を失うくらいに飲んでもう飲めないというところまでいったほうがよい。もっとも極端に酔ったときには筆の運びもなおざりになり、酔い潰れて家も屋敷も樹木も石も弁別がつかないほど曖昧模糊としてくることもあるが、それがまた却って趣があって面白い。 田能村竹田は、玉堂の絵は形式などに囚われずに自由奔放に天稟の資質が赴くままに描いた方がいい作品ができると見ていたことが窺える。 文化九年六十八才のとき、東雲篩雪図を描き上げた。 筆者が始めてこの絵に接して感じた「なんと暗鬱で閉塞感の漂うやりきれない気分の絵であろうか。だが何故かとても魅きつけられる」という印象は磐梯山山麓で一冬過ごしたときに感じた玉堂の堪えがたい寂寥感がベースになっていたのである。 モチーフを得てから既に十七年の月日が経っていた。十七年間胸中深く温め続けてやっと表出された玉堂の悲痛な叫び声であった。 この絵について久保三千雄氏は次のように解説されている。 <玉堂の状況に変化があったわけではない。依然として、自らの痴愚を嗤いながら鬱塞、沈鬱、寂寥を噛み締め堪えるのが日常であった。世の厳しい判断は筆をとる以前に既に明らかであった。筆をとれば手は慣いのままに動いたが、世に画人と認められたことなど一度もなかった。勿論、春琴のもとを訪れるような、画絹を持参して画を請う者など皆無であった。・・・・・弾琴であれば自らのすべてを吐露しようとも、胸奥の心象まで察知される危惧はないし、心象の複雑は却って音色に余情をもたらす効果を発揮したかも知れない。ところが、絵となるとすべてが誤魔化しようもなく顕れずにはいない。玉堂には剥き出しにするには憚られるものが多すぎた。画紙に向かうと苦衷が先に立って筆先をためらわせ、鈍らせてきた。それがすべての由縁を断ち切って、真に独立した模糊とした玉堂世界を描いた。頭を去らない会津での苦い記憶に正面から対して、行き処とてないままに一処に佇む己を客観視するには十七年の歳月が必要であった。筆をとるには勇気が必要であり、また胸奥での発酵を促す歳月の経過があって、初めて画紙に向かう気力が湧いたのである。この殆ど壮絶な雪景からは、誰にも訴えるすべもないまま、鬱塞に堪えて一処に足掻いていなくてはならない人間の悲痛な叫びが伝わってくる。東雲篩雪図は玉堂が初めて明らかにした己の心象の自画像に他ならない。(浦上玉堂伝 新潮社)>
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