前潟都窪の日記

2005年07月26日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂42完結編

 文化十年には「平安人物志」に玉堂の名前が春琴とともに載った。これは当時の京都著名人の人名録である。既に春琴は流行画家として有名になっていたが、父子ともども京の芸壇に認知されたことは浦上家の慶事であった。玉堂は六十九才になっていた。この頃は柳馬場二条に定住して絵にかなりの時間を割いていた。
 本稿は南画の評論ではないので玉堂の作品を一々取り上げないが、その名品の多くが六十才以降に描かれている。
 田能村竹田は玉堂の絵について再び、「山中人饒舌」の中で次のように評している。
<余、紀の画を評して三可有りとす。樹身小にして四面多し。一の可なり。点景の人物極めて小にして、これを望むも猶、文人逸士なるを知る。二の可なり。 染皴擦深く紙背に透る。三の可なり。又、三称有りとす。人は屋に称(かな)い、屋は樹に称う。>

<私は玉堂の画を評して、三つの可なるところがあるとする。樹木の形が小さく四面に枝が多いこと、これが一の可である。点景の人物が極めて小さく、これは遠くから見てさえ文人逸士であることがわかる。これが二の可である。乾かしてまた塗る、擦りつける筆遣いは紙の裏まで通るほどである。これが三つの可である。また三つの釣り合いのとれた点があるとする。作中の人物は家屋とつりあい家屋は樹木とつりあい、樹木は山とつりあっているという三点である>

 <李日華言く、「絵事は必ずや微茫惨憺をもって妙境となす」と。昔人、その此の如くならざるを苦しみ、或いは再び滌ぎ去りてしかるのちに揮染し、或いは細石を以て絹を磨き、黒色をして絹縷(けんる)に著入せしめんと要(もと)むるに至る。その心を用うること知るべきなり。紀玉堂、稍、此の旨を解す。故に吾人この人を取るあり>
<明の画家・李日華は、絵画の極意は、模糊として薄暗く趣のある様子を優れた境地とすると言った。昔の人はこのような境地をつくることのてできないことを苦しみ、あるいは何回も絵絹を洗い去った後に描いたり、あるいは細かい石で絹をこすって、墨色を絹の中にしみこませようとしたりする。画家はこのように大変苦心しているのである。浦上玉堂はやや李日華の趣旨を理解しているので、私はこの点で玉堂に学ぶところがあるのだ>
 又、画僧・雲華は次のような詩で玉堂の絵と制作態度を評している。
   玉堂酔琴士 漫筆発清機 
   妙々洋峨趣 数人坐翠微
    玉堂は酔琴士なり、漫筆清機を発し妙々たる洋峨の趣、人をして翠微にざせしむ
 玉堂はよく酒を飲む。酔えば琴を弾く。まさに酔琴士である。しかもよく筆をとる。描けば活き活きとした精気を発っする絵ができる。琴といい、絵といい、洋々峨々の趣がある。青々とした山に靄が立ち込めて、その中にじっとしている自分を思わしめるものがある。
 旅を重ねて行く中で玉堂の心身からは俗世の垢は剥落していき、物欲俗情は削ぎ落とされて心身は自然と同化していくのであった。いつしか無為自然の老荘的な生き方になっていったのである。
    漁隠(後集)                           身与鶴倶痩 心将鴎共閑
   一生何活計 詩酒釣琴間
    身は鶴と倶に痩せ 心は鴎と共に閑かなり
    一生何の活計ぞ 詩酒釣琴の間
 身体はまるで鶴のように痩せ、心はあの大空を飛ぶ鴎のようにゆったりと静かである。いったいどのようにして生きているのかといえば、それはまさに詩と酒と釣りと琴の生活である。
 晩年には長旅はせずに京都で過ごした。自然の中に身を置いて感覚を鋭利に研ぎすましていく晩年の詩に次のものがある。
    嵯峨懐古
   嵯峨山下川潯大 懐昔幽 弾玉琴
   十二峰々明月夜 松濤深処有遺音
    嵯峨の山下、川尋(せんじん)大なり。
    昔に懐(おもい)をはせれば、幽○に玉琴を弾じたり。                       十二の峰々、明月の夜。松濤(しょうとう)深き処、遺音有り。
                                   嵯峨の山の下を巡って流れる川の淵は深くて水を豊かにたたえている。ふと昔のことを思い出すと、ここで門を固く閉ざして琴を奏でたものだ。嵯峨野周辺の多くの山々は冴えざえとした明月に照らしだされて黒々とその姿を横たえている。松の梢に吹き渡る風は海鳴りのように聞こえる。その遠く奥深いところに私は太古の調べを聞きとっているのだ。            杜門弾琴
   秋風来幾日 簫索入疎林
   心外無他事 杜門独鼓琴
    秋風来って幾日ぞ。簫索(しようさく)として疎林に入る。    心外、他事無し。門を杜(とざ)して独り琴を鼓す。
 秋風が吹くようになって幾日になったであろうか。疎らに立木の生えた山に冷たい風がものさびしく吹いて梢を鳴らしている。心の外には私を煩わせるようなものは何もない。門を閉ざし独り静かに精神を集中して琴を弾いていると自然に同化していく心地がする。
 文政元年玉堂七十四才のとき吉田袖蘭という十九才の才媛に       <古木寒厳、暖気無く、君に憑(よっ)ては 願わくば数枝の花を仮らん>という詩を贈っている。
 また同じ年に袖蘭と一緒に詩仙堂で琴を合奏している。この頃、袖蘭に請われて琴を教えいたのである。老いた玉堂の回春の戯れであった。脳裏には岡山の堀船で芸妓豊蘭と交わした一番弟子にするという戯れ言が蘇っていたことであろう。
 痩せ細った白髪の老人が赤色の鶴装衣に身を包んで妙齢の女性の手をとりながら指導している姿は微笑ましいものであった。
 後集の最後の詩は次のものである。
    客中秋夜
   秋来鴻雁渡天涯 夢後沈吟忽懐家
   千里郷関離別久 夜深消息卜燈花
    秋来、鴻雁(こうがん)は天涯を渡る。             夢後沈吟して忽(たちまち)家を懐う。                千里の郷関離別して久し。 夜深くして消息を燈花に朴う。

 秋がきて白鳥や雁の群れが、大空にさまざまな線形を描きながら暖かい地を目指して渡っていく。うたた寝から目覚めて、静かに詩などを吟じていると、渡り鳥の姿に触発されて家族や知己のことが懐かしく思いだされてくる。遠く生まれ故郷を離れて随分長い年月が過ぎていった。夜も更けて燈芯の先で揺らぎながら燃え上がる炎の形で家族や知己の安否を占ってみるのである。
 仁政実現という宿志を抱いて理想に燃えながらひたむきに走り続けた青年時代。
 やがて栄進して知った現実社会の醜さと汚さ。
 理想と現実の乖離に悩み煩悶しながらも俗世間に妥協できないままに疎外されて味わった挫折感。
 周囲から痴愚と見做されているのを承知の上で自己の価値観を堅持した挙措言動。
 意地を貫き通すための脱藩。
 心身から俗情と贅肉を削ぎ落として感覚を鋭利に研ぎあげていった放浪時代。
 喜怒哀楽につけ琴を友とし自然と同化して自分のために絵を描いた弾琴の画仙浦上玉堂の画才に対してブルーノタウトは次のように限りない賛辞を呈している。
<私の感じに従えばこの人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。彼は自分のために描いた。そうせざるを得なかったからである。彼は日本美術の空に光芒を曳く彗星の如く独自の軌道を歩んだ・・・この点で彼はヴィンセント・ヴァン・ゴッホに比することができるであろう。(ブルーノ・タウト 美術と工芸 篠田英雄より)>
 文政三年(1820)九月四日京都で没した。享年七六才であった。


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