2005年07月27日(水) |
三村一族と備中兵乱1 |
三村一族と備中兵乱 一、備中松山城 備中松山城は臥牛山の上に築城された山城である。鬱蒼とした自然林に覆われた臥牛山は北から大松山、天神の丸、小松山、前の山の四つの峰からなっている。山頂には何れも城址がある。最高峰は天神丸で標高480メートルに及び、現存する山城としては、日本国内では最も高い所にあることで有名である。現存の城郭は小松山と前山とにあり、天神の丸と大松山にあるものは戦国時代以前の城址である。 城の歴史は鎌倉幕府の二代執権北条義時から承久の乱の戦功で備中有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭職に任じられた秋庭三郎重信が仁治元年(1240)大松山に居館を築いたことに始まる。秋庭三郎重信は相模の国の三浦一族であった。大松山に居館が完成すると有漢の地から高梁の地へ移住し以後秋庭氏はここを本拠にした。 その後、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げたのをきっかけに(元弘の変・1331年)、南北朝並立の動乱の時代が始まるが、天皇が幕府方に捕らえられて隠岐に流された年の元弘二年(1332)に松山城には、備後の三好一族の高橋宗康が入城し、城域を小松山まで広げ城としての縄張りは徐々に拡大された。その後、高橋氏が約25年間在城したのち正平十年(1357)高師泰の子高越後守師秀が備中守護として松山城を預かることになった。彼は家臣の秋庭信盛を執事として起用した。しかし師秀は生来猜疑心が強く施政の判断にも間違いが多かったため、信盛からしばしば諌言を受けたが聞き入れず次第に主従不和となった。正平17年(1362)に足利直冬ら諸国の南朝方が蜂起したとき、南朝方に帰順した山名時氏らの美作勢と備中の山名方の多治目備中守ら二千騎の軍勢を兵粮の蓄積された松山城へ引き入れたのが信盛であった。このため高越後守師秀はなす術もなく備前徳倉城へ逃げのびた。こうして再び秋庭重信の子孫の秋庭信盛が備中守護代として城主に帰り咲いたのである。 応仁の乱(1467)以後戦国時代に入り秋庭元重が城主の時、1509年に毛利氏に攻められて敗北し秋庭氏の名前は松山の城郭史から消えることとなった。 その後の戦国時代には将軍義稙の近侍上野民部大輔信孝の子である上野備前守頼久が鬼邑山城から入城し、以来上野氏、荘氏、三村氏と血に彩られた争奪戦が繰り広げられ、三村元親が最後の悲劇の城主として戦国時代に幕を閉じるのである。 現在の「備中松山城」は天和元年(1683)に松山藩主水谷勝宗の手によって完成したものといわれており、天然の巨石を天守台として利用した木造本瓦葺、二層二階建の天守は、内部に岩石落としの仕掛けや籠城に備えた石造りの囲炉裏・落城の時城主の家族が切腹するための部屋である装束の間・御社壇等手の込んだ造りがなされている。
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