2005年07月28日(木) |
三村一族と備中兵乱2 |
二、洛中 「宗親よ、都の女性(にょしょう)にゃぁ、狐や狸のようなのが多いちゅうけん、誑かされんよう気ぃつけんせぇよ。都の女性は貢物だけ巻き上げてぇていつのまにかおらんようになるそうじゃけんのぉ」と久次が先輩面をして言った。 「そうだ。宗親は初(うぶ)で人がええけんのぉ」 と元資が同調した。 「わしゃぁ、女性(にょしょう)にゃぁ興味ねぇよ。それよりゃぁ折角都へ出てきたんじゃけん、良い刀でも捜して買うて戻りてぇと思よんじゃがなぁ」と宗親が生真面目な顔で応じた。 「刀なら粟田口へ行ってみんせぇ。腕のええ刀鍛冶がいる筈じゃけん。せぇにしても、街並みは随分荒れとるのうぉ。火事跡だらけじゃが。昔、朱雀大路のあたりにはぎょうさん店が立ち並んで賑わようたのにのう」 と元資が昔、都へ上ったことがあり、街の様子を多少は知っているのをひけらかすような口調で言った。 周防国主・大内権助義興の京都における宿舎・大内館は、室町近くにあったが、その大内館の侍詰め所を根城として若武者達はそれぞれに羽を伸ばしていた。 明応の政変(1493年4月将軍義材を廃立しようと、日野富子と管領細川政元が企らんだ事件)で足利義材は河内で虜囚となり、同年六月越中に逃亡した。1498年九月足利義材は朝倉氏の援助で越中に於いて京都奪回の兵を挙げるが成功せず、周防国の太主大内権助義興を頼って八年近い歳月を周防で過ごしていた。時の管領細川政元は新将軍足利義澄を擁立して、権力を掌握するが、永正四年六月(1507)家僕の香西元長、薬師寺長忠らによって入浴中暗殺された。この事件を奇貨として、再度威権を振るうべく、足利義稙(当初義材、改名し義尹、ついで義稙)は大内義興の援助を受けて山陽道及び西海道の国主へ檄を飛ばし入洛を企てた。これに応じて諸国の武将が永正五年(1508)六月に上洛したとき、義興麾下の備中の豪族達も、侍大将として義稙に具奉したが、その中に三村備中守宗親、荘備中守元資、石川左衛門尉久次がいた。 彼らは血気盛りの若武者で、応仁の乱で荒廃していたとはいえ、都の夜を楽しんでいたのである。三人の中では宗親が一番若く、生真面目で備中の領国での小競り合いには常に勝ち抜き領地を次々と拡大し注目されている当節売り出し中の若武者であった。 義稙が海路堺に到着し、堺から陸路入洛した日は六月八日で梅雨の雨がしとしと降っていた。 備中の若武者達も相前後して京都へ入っていたが、その日、元資と久次は予て馴染みの白拍子を求めて賀茂川の川原へ繰り出したのである。宗親は都は初めてであるし、武者詰め所で無聊をかこっていた。
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