2005年07月29日(金) |
三村一族と備中兵乱3 |
三、三村一族 三村氏の本貫の地は、信濃国洗馬郷(現長野県筑摩郡朝日村付近)であろうと言われている。太平記巻七の「船上山合戦事」に於いて、後醍醐天皇が元弘三年(1333)閏二月に、隠岐島を脱出して名和長年を伯耆国に頼り船上山に立て籠もったとき、天皇に加勢しようと馳せ参じた備中の武士達の中に三村の姓が出てくるので、三村氏はおそらく鎌倉時代の承久の乱の後に新補地頭として信濃から備中に派遣されたのではなかろうかと思われる。 石清水八幡宮領の水内北荘(現総社市)の領地を弘石大和守資政の侵略から防いでくれるよう、三村左京亮に依頼した文書が石清水八幡宮に残されているが、その日付は貞治四年(1365)となっているのでこの頃から三村氏は高梁川流域に相当の勢力を持っていたことが窺われる。その後、明徳三年(1392〜4年)にかけて三村信濃守が天竜寺領の成羽荘を侵略しようと策動していたので備中守護の細川氏から荘園侵略をやめるよう圧力をかけられたこともある。その後約一世紀に渡って三村氏の動きは史書からは読み取ことができない。 明応三年(一四九四)に三村宗親が成羽に氏神として八幡宮を勧請した記録(成羽八幡神社旧記)が残されていることからすればこの頃、父祖以来念願の成羽入りを果して、これ以後鶴首城を築いたものと思われる。 三村氏が根拠地とした鶴首城は標高338メートルの鶴の首のような形状の山上に築かれた山城であり、城の北側に成羽川、西に二つの谷川、南から東にかけては百谷川が流れている。天然の要害であり昔から備後と備中中部を結ぶ要衝の地でもあった。 「お館様は運の強いお方じゃ。こたびの上洛でもきっと、手柄をたてて来られるじゃろう」 と三村五郎兵衛は、主の三村宗親が神前に向かって柏手を打っているのを頼もしげに見やりながら隣に畏まっている郎党の三田権兵衛に話かけた。 「ほんまにそうじゃなぁ。星田の郷よりこの成羽の地へ出てきてから一年も経たないうちに難攻不落の鶴首城を築きんさっただけでもぼっけえことじゃと思ようたのに八幡神社の勧請をなし落慶までなし遂げられたんじゃけぇのう」と権兵衛が感極まった声で応じた。 「八幡神社は弓矢の神様じゃ。せぇがまた三村一族の氏神様でもあるんじゃけぇ余計に有り難いことじゃ。こんどの戦も必勝じゃ」 「年が若いのに信心深いことじゃ」 「そりゃぁ、尼子経久の殿を手本にしようとしておられるからじゃろう。尼子の殿は出雲大社やら日御碕神社に対する崇敬の念が強いお方と聞いているし現実に領地を次々と拡大しておられるけんのう」 「ほんまに、お館様は尼子方に組するおつもりじゃろうか」 「そこが、一番難しいところじゃろう。周防の大内義興殿を頼って都から公家衆がぎょうさん落ちていかりょぅるというけん、大内殿についたほうがええんじゃなかろうかとわしゃ思うとるんじゃがなぁ」 「こたびは、都へ将軍様が攻め上られるのにお供をされるのが大内義興殿じゃ。我がお館様は大内殿の傘下で上洛されるということじゃけえ、大内方ということじゃろうが」 「それはそうじゃが、三村の殿へも将軍から直々に檄の文が届けられとるからのう。尼子殿と大内殿と同じ扱いじゃ」 「お館様も面目を施したものじゃのう」 「都へは尼子の殿も上られるじゃろうから、戦振りを見てから決めてもよかろうと思うがのう」 「賢明な殿のことじゃ。そのへんのことはよう考えて決断されるじゃろう」 「こたびの戦勝祈願は八幡神社の落慶も兼ねて執り行われるけんこのあと色々な催しがあるそうじゃのぅ」 「今度は、都でも有名な甫一法師の平家物語の奉納じゃ。滅多に聞けない名調子じゃけぇ耳の穴をようほじっといてからお聞きんせぇよ」 と五郎兵衛が言った。 「琵琶法師様は何処からこられたんじゃろうかのう。それにしてもお館様に輪をかけてまた若い法師様じゃなぁ」 とさっきから二人のやりとりを聞いていた山形作助が五郎兵衛に聞いた。 「年はまだ16とかで、童顔じゃが、声は美声で都でも一、二を争ったそうじゃ。こたびはお館様がわざわざ備前の福岡までお迎えに行かれて連れて来られたんじゃ」 「ここには何時までおられるんじゃろうか」 「さぁー」 「また、聞かしてもらえるんじゃろか」 「福岡まで行けば、聞かして貰えるじゃろうとおもいますらぁ」 「戦乱で混乱している都を逃れて周防の山口まで逃げて行こうとされとったんじゃが、何故か福岡が気にいられてそのまま福岡に住みつきんさったということじゃ」
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