2005年08月04日(木) |
三村一族と備中兵乱9 |
奈々が鶴首城へ身を寄せてから間もなく、正室須磨の方の輿入れがあった。奈々は須磨の方お付きの侍女に抜擢された。奈々は影日向なく、常に真心込めて甲斐甲斐しく勤めたのでその明るい人柄は須磨の方にも気にいられた。都育ちであるということも都から遠く鄙びた土地へ輿入れした須磨の方には懐かしかった。何かにつけ頼もしく、頼り甲斐があったのである。献身的な奈々の接遇態度は人と所を選ばなかった。たまに戦場より帰還して息抜きをする宗親に対しては、恩義を感じているだけに誠心誠意尽くすので、宗親が側室にしたいと考えるようになるのに時間はかからなかった。 側室になって男子を産んでから奈々の悩みが始まった。虎丸と犬丸の関係をどのように調整していくのが二人のためになるのかということである。庶子とは言え、武家の男子として生を受けたからには、戦国の世にあっては肉親同志で殺戮しあわねばならない事態が発生することも覚悟しておかなければならない。犬丸の行動を見ていると肉親同志で争うことは悪であると思い込んでいるふしが見受けられる。子供心にそう考えているのが母親としてはいじらしくもあり切ないのである。犬丸はいずれ早い時期に出家させたほうがいいのかもしれないと奈々の悩みは続くのである。
家親が二十一才になったとき父の宗親は備中制覇の野望を抱きながら、ある朝突然脳溢血で倒れてしまった。 「成羽の地を足掛かりにして備中、備後、備前を制覇するのがわしの夢じゃった。しかも一族相争うことなく、力を合わせて一族が繁栄することじゃ。わしの見るところ尼子よりも毛利のほうが有望じゃ。毛利に加担してこのわしの願いを実現して欲しい」 というのが宗親の遺言であった。
家親は父の所領を受け継ぐと鶴首城を根拠にして備中、備後、備前の制覇に本腰をいれる決意を固めた。
家親は、親頼、政親という弟達のほかに親房、親重等武勇に優れた親族に恵まれたことも幸いして、いつしか小田、後月、阿賀、哲多、川上等の五郡を押さえ領内に三十にも余る枝城を構え「備中の虎」と恐れられるようになっていた。備前や美作へもしばしば侵略を繰り返し、伯耆から遠征してきた尼子経久の孫晴久としばしば衝突した。 家親が家督を継いだ天文二年(1533)のある日の朝、城内の庭の植木に水をやっている家親の前へ忍びに身をやつした中村吉右衛門尉家好という乱舞の芸者がやってきた。 家親が猿掛け城の動きを探る為に放っておいた諜者である。 「お館様、猿掛け城の荘為資が今宵、松山城を攻撃します」 「尼子の命令か」 「いかにも」 「上野の動きは」 「全然気がついていないようです」 「そうか。しかし、今尼子を敵に廻すことは得策ではない」 「上野を見殺しになさるおつもりか」 「止む終えぬ」 「事は急です。御指示を」 「その方の手下は何人いるか」 「五人は庭木の下に待機しています」 「ご苦労。密かに松山城へ入り若君の鷹千代丸を助けだして欲しい」 「心得えました」と諜者の家好は茂みへ消えていった。
 
|