前潟都窪の日記

2005年08月05日(金) 三村一族と備中兵乱10

 家親の父宗親は松山城へ将軍足利義稙の近侍として入城した上野信孝の妹須磨の方を正室としていたので鷹千代丸は従兄弟の子という縁戚関係にあったのである。
 早速、鶴首城に重臣達が集められ軍議が開かれた。
「絶好の機会じゃ、お館様も荘と組んで松山城を攻められりゃぁ、備中制覇の夢が実現しますが」
と親頼が言った。
「荘為資の父親荘元資はお館様の父上、宗親様と京都船岡山の戦の折り、苦労を共になさった仲じゃ。荘に味方して上野を攻めれば、勝利は間違いない。いわば荘氏は三村と同族のようなものじゃ」
と政親が言った。
「今、荘に加勢すれば尼子方につくことになる。尼子につくことは、将来毛利と手を組むときの障害となる」
と家親が言った。
「松山城の上野伊豆守は殿の母御前を通じて縁戚にあたられるけぇ、攻めるこたぁでけんのじゃ」
と五郎兵衛が家親の苦しい胸の内を代弁した。
「五郎兵衛の言う通りじゃ。上野は縁戚じゃが荘は縁戚ではない。しかも将来戦わねばならない相手じゃ」
と家親が言った。
「戦国の世に親族も親子も関係はなかろうがな。今は何処でもそうじゃ」
と親頼が言うと
「世の風潮がどのようなものであれ、一族が 相争わず、協力してことにあたるのが、三村一族の行き方じゃ。一族団結こそが三村一族がここまで繁栄してこられた根本精神じゃ。この良き風習をわしの代でなくすことはでけんのじゃ。ここのところをよう判って欲しいのじゃ」
と家親が額の汗を拭いながら言う。
「なるほど、今までは確かにそうじゃった。しかし、何時までも古い観念に縛られていたらこの厳しい乱世に生き残っていかれんじゃろうと思うんじゃがな。好機きたれば、親でも殺す」
と親頼が言った。
「それは暴言じゃ。人の道を外すことは断じて許すことができない。三村家の棟梁として命令する。こたびは出兵しないでこの城をかためるだけにする。荘にも上野にも味方しないで様子をみることにする。皆のものそう心得よ」
と家親が断を下した。
「心得申した」
と一座の者が唱和した。
「もし上野が負けたら荘は松山城へ入るじゃろう。そしたら猿掛け城は手薄になる。そのとき一挙に猿掛け城を攻める。そして松山城も手に入れる。そのときは尼子と一戦構える覚悟が必要となる。物には順序と時が必要じゃ」
「なるほど、お館様のほうが一枚上手じゃわい」
と五郎兵衛が感心した口調で言った。

 三村一族は鶴首城を固め、何時でも松山城へ出撃できる体制を整えたが結局動かなかった。家親が動かなかったので荘為資の松山城奇襲作戦は功を奏し、城主上野伊豆の守は植木秀長に首級を挙げられてしまった。

 植木秀長について若干説明すると、彼は荘為資の甥であった。上房郡北房町上中津井にある佐井田城は、標高285メートルの山の上にあったが、この城を築いたのは荘為資の弟藤資の嫡男植木秀長であると言われている。藤資は上呰部(あざえ)の植木に館を構えていたので植木藤資と呼ばれた。彼は永正十四年(1517)以降に植木城からこの佐井田城へ本拠を移した。植木秀長は武勇の誉れ高く、若干18才で父藤資の代理として三好長基の軍に従い、大内勢と戦ったとき、一番槍を入れ敵を撃退している。


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