2005年08月07日(日) |
三村一族と備中兵乱12 |
六、荘 一族 荘氏は源平合戦で活躍した武蔵七党の一つ児玉党の一員であり、荘家長が建久七年(1192)一の谷の合戦で平重衡を生けどった功により、源頼朝から備中四庄を恩賞として貰い、武州から移住してきて土着した。最初は幸山城(都窪郡山手村西郡)に拠ったが、延元元年(1336)荘左衛門次郎は足利尊氏が九州から東上した際、足利直義の旗下に加わり、備中福山城(幸山城と同じ山にあった)で足利軍が新田義貞を破った合戦に参加した功で猿掛城主になっている。
猿掛城は小田郡矢掛町と吉備郡真備町との境に位置する猿掛山(標高232m )の山頂にあって昔の山陽道 を眼下に見下ろす要衝の地であった。 その後、正平18年(1363)足利直冬のために、一時この城を追われるが、細川頼之が備中守護職になると応永年間(1394〜1428)に荘資政の代になって再び城主に復帰した。幸山城へは石川氏が入った。城主交代の背景には細川氏の政略的な意向がはたらいていたのである。 その後の荘氏は永享年間(1429〜1441)に備中守護細川氏のもとで猿掛城にあって幸山城の石川氏とともに守護代を務め勢力を伸ばした。荘孫四郎太郎資正、荘甲斐守資友、荘四郎五郎等がこの地を中心に多くの支城を築き城主となった。
応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱で備中守護職細川勝久は細川総領家の勝元の指揮下で東軍の有力な武将として戦った。この大乱を機に備中でも寺社領や公家領の荘園に対する土着武士の争奪戦が激化してきた。特に守護代荘元資の活動が目立ち、延徳三年(1491)には讃岐の香西氏と連携して守護細川方の軍勢と合戦し五百余人を討ち取った。 在京していた守護の勝久は翌年の明応元年(1492)に軍勢をひきつれて備中に入国し、元資を破って反乱を一旦鎮め元資と和睦した。 前に述べたように元資は永正五年(1508)大内義興が将軍義稙を奉じて上洛したとき石川久次や三村宗親らと共に船岡山の戦いに参加し武功をあげ、都の生活を経験している。
出雲の太主・尼子晴久は天文六年(1537)尼子の家督を継承してから、祖父尼子経久の志を継ごうと決意した。祖父の志とは上洛して天下に覇を唱えることであった。 尼子の軍勢は天文七年播磨に入り、播磨国守護の赤松政村を追い、八年十月には英賀城を攻略した。また赤松政村を応援するため備中に進出してきた阿波国守護細川持隆の兵を撃破して武威を高めた。伯耆・因幡・但馬の名族山名一族には既に昔日の力は無くなっていたし、今また尼子に敗れた赤松氏にはかって美作・備前・播磨を統治した名族としての権威も地に落ちたので、東部中国の諸豪族は顔色なく尼子晴久が天下の覇権を握る日は近づいていた。 しかしながら、大内義隆を後ろ楯に持つ毛利元就の勢力には侮り難いものがあったので晴久は安芸・備後を制圧して背後の心配をなくしてから東上しようと考えるに至った。 尼子晴久は天文八年(1539)一族と重臣を招集して軍議を開いた。
「伯耆・因幡・但馬の山名に力なく、東に赤松を破った今、上洛して天下に覇を唱える時期が近づいたが後顧の憂いをなくする為に安芸・備後へ遠征して毛利の拠る吉田郡山城を攻めようと思うが、各々思う所を聞かせて欲しい」 と晴久が言った。 「賛成でござる。先鋒は是非それがしに」 「いよいよ天下取りに向かって御進発ですかおめでとうございます」 と大半の出席者が賛意を表明して大勢は出撃という熱い空気が漲ったとき、突如冷たい空気が流れこんだ。今まで苦虫を噛みつぶしたような顔をして黙って聞いていた晴久の大叔父尼子久幸がやおら手を上げて発言を求めた。 「皆の意見は毛利討伐に固まっているようだが、最近の戦での勝利に奢って毛利の怖さに気がついていない。毛利の城は晴久傘下の城などとは違って、簡単に落とせる代物ではないぞ。毛利元就という名大将に立ち向かって遅れをとるようなことがあっては末代までの名折れになろう。わしは今回の毛利攻めには反対だ。皆の者、もう一度よく考えてこのたびの遠征は思い止まるほうがよい」 主戦論に水をさされた晴久は 「野州殿も歳をとられたらこうも臆病になられるものか。毛利が力をつけて強くなる前に叩いておくのが、戦略というものであろう」 と二十六才の血気に任せて諫止の言葉を押し切ってしまった。
当時、隠居して病床にあった経久は後日軍議の様子を聞いて 「久幸の判断は、私の気持ちによく合っている。小勢であるからといって毛利元就を侮ってはいけない。私の命は尽きかけているので私が死んだら久幸を私だと思い、軍事につけ政道につけ彼の諫言を尊重して領国を治めなさい。しかし、久幸も老年なので、新宮の国久を後見としなさい。新宮党を軍事の柱として一家が和合し、お互いに尊敬しあってことにあたれば領国の民が背くこともないであろう。そもそも家が滅びるのは一族の不和が原因である。よくよくこのことに思いを致して親類を労り、尊敬してわがままの驕奢を慎まなければならない」 と尼子氏の行く末を暗示するような訓戒を言い残している。

|