2005年08月08日(月) |
三村一族と備中兵乱13 |
尼子晴久は安芸の国へ侵攻する場合、備後国比叡尾城(現広島県三次市畠敷町)が尼子軍の通路を妨害していることになり、兵糧を送るのに邪魔になるからこれを打ち従えようと考えた。そこで、天文九年(1504)八月尼子久幸尼子清定らを先陣として五万六千騎を率いて、府野(広島県双三郡布野村)山内(広島県庄原氏山内)へ布陣した。比叡尾城の城将は、国人の備後三吉入道とその嫡子新兵衛であった。彼らは最初数か月はよく奮戦し防戦したが、なにせ多勢に無勢である。精鋭とはいえ少勢ではこの大軍を支えきれないと判断し大内家に応援を求めた。
直ちに大内家では幕下の国々へ廻文し、これに応じた侍大将達は備後三吉の居城へ後詰を行った。備中からは船で鞆の津へ石川左衛門尉らが六千騎の兵を率いて到着した。また陸路を三村家親、二階堂近江守、野山宮内少輔、赤木蔵人、上田右衛門、穴田伊賀の六千騎が駆けつけ、備後国東条と出雲横田を結ぶ大阪峠の難所に要害を築き、敵に備えた。
三村家親らの南備中勢は諜者を城へ忍ばせ味方が到着したことを告げ合図をまっていたところ、 「九月二日の深夜城兵が夜討ちにでる。城内で法螺を鳴らすので、一斉に尼子晴久の本陣に攻め込んで欲しい」 という知らせがあった。 「合い言葉をかけながら、深くせめいり、浅く引き、敵を打っても首は取らないことにしよう」 と約束ごとをを決めて丑の刻に尼子の陣へ押し寄せ鬨の声を挙げた。 寝耳に水の尼子軍が慌てふためいている所へ矢を射かけ、突きかかり多くの敵をうちとった。尼子晴久が旗や幕をうちすてて逃げるところを東条と横田の境目で待ち受けていた備中の三村家親が尼子晴久の旗本へ切りかかった。不意をつかれた尼子勢力は慌てふためいて道もない山へかけのぼり谷底へ雪崩落ちていった。中には自分の持っていた太刀に貫かれて死んだ兵も数人いた。
天文十年(1541)尼子晴久は再び山陰七か国の軍勢七万騎を率いて芸州へ出陣し、毛利元就の居城吉田郡山城を攻撃した。この合戦では大内義隆卿より派遣された援軍の深野平左衛門、宍戸左衛門尉、宮川甲斐守らが尼子晴久勢の背後を襲ったが大軍でありなかなか勝敗は決しなかった。 この時大内義隆から備中各国の麾下の侍大将に出された下知は 「尼子晴久は大軍をもって備中国をおしとおるので、各自の城を固く守り街道の要所には関番を置き雲州勢の陣所へ兵粮を送れないように妨害せよ」 ということであった。この下知に従い石川左衛門尉、二階堂近江守、高橋玄蕃上田右衛門、清水備後は荘庄太夫の居城である猿掛山城と石田の要害に立て籠もり、関か鼻をきりふさいで兵粮の通路を止めた。
三村家親、赤木蔵人、野山宮内少輔、秋庭大膳、鈴木孫右衛門は東条へ出陣し大阪峠に要害を構えて兵粮の通路を押さえ尼子勢の往来を止めた。尼子晴久は数ヵ月にわたって吉田郡山城を攻めたが、勝利を得ることができず引き上げた。元就からは備中の侍大将達に厚礼があった。
丁度この頃、日本の戦法に、革命的な変化をもたらすことになる武器が西洋から伝来した。ポルトガル船が種子島へ漂着し、鉄砲が日本へ伝わったのである。天文十二年(1543)のことである。
備中の虎として周辺の国人達に恐れられる程の武威を誇るようになった家親は、将来、中国地方の覇者となるのは誰だろうと尼子晴久、毛利元就、宇喜多直家、松田元輝等の器量を観察したところ毛利元就がもっとも有望であると考えて、その傘下に入ることを決意した。 使者として一族の三村五郎兵衛を元就の許へ派遣し親書を渡し口上を述べさせた。 「これまでは、どの陣営にも属さず独力で戦ってきましたが、今後は毛利の殿のお味方をして忠勤を励みたいと思います。殿は中国地方を平定され、ゆくゆくは都へも上られる器量のお方だと信じております。この家親、殿のお役にたてるよう身命をなげうってぞんぶんに手柄をたててご覧にいれましょう。そこで中国を悉く御平定なさった暁には、私が身命をなげうって切り取ったところは全て賜りたい。また天下を平定されたときは備前、備中、備後の三か国を賜りたい。家親が一人お味方につけば、殿の声望と相まって備後、備中の国人達は三年のうちに悉く我等の味方になるでしょう。そのためには先ず当面の敵である猿掛け城に籠もる荘を攻めほろぼすことが肝要です。荘が落ちたら細川、石川、伊勢の一族どもはやがて降参してくるでしょう。どうかこの趣旨を御理解願って早く援軍を賜りたい」 と申し上げたところ毛利元就は、 「家親が味方になれば、千人の味方を得たようなものだ。荘を攻める日時が決まり次第早速応援しよう」 と喜んで約束した。

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