2005年08月09日(火) |
三村一族と備中兵乱14 |
七、雲州富田城攻め 周防国の太守大内義隆は、安芸、備後、出雲、石見の諸豪族ら13人が一味同心して出雲遠征を促したので、これに応えて山口築山の屋形を天文12年(1542)正月11日出陣した。養嗣子大内晴持を始め、陶隆房、杉重矩、内藤興盛の三重臣以下精兵約一万五千がこれに従った。途中安芸の国府で毛利元就らの率いる安芸・備後の兵と合流し、雲州富田城を目指した。先鋒は三月、出羽の二ツ山に陣をしき、石見の諸将らが此処で参陣した。 大内軍は最初の攻撃目標として赤穴の瀬戸山城を選んだ。攻撃の先鋒を命じられたのは毛利元就であった。この城は出雲、石見、備後の接するあたりに位置し尼子氏の戦略上の拠点となっているからである。雲州赤穴の瀬戸山城主赤穴左京亮光清は三千騎をもって城へ通じる道の難所に陣取り防戦した。
この時三村家親も備中成羽から郎党百騎程を連れて参戦していた。 「又次郎、遅れをとるな。この戦いは筑前、肥前、周防、長門、石見、安芸備後、備中の武者が手柄を競う戦いぞ。初陣の手柄をたてるのはこのときぞ。怯むな」 と家親は又次郎の背中を叩いていった。 「はい。おやかた様」 又次郎は武者振るいしながら応えた。
大内軍の三村家親、二階堂近江守、伊達宮内少輔、赤木蔵人、杉原播磨守、有地民部、楢崎十兵衛らの備後備中勢は六月先駆けして戦い赤穴光清を居城へ追い込んだ。 「血祭りにして軍神にささげよう」 と兵達は城の四方を取り囲んで弓矢を射かけて攻撃した。 赤穴光清は名将の誉れ高く、富田城からの援将田中三郎左衛門らとともに籠城し、四方に弓の名手を配置して石弓を使って決死の防戦をするので、手負い死亡するものも多かった。 寄せ手の大内方は城に突入することができないまま膠着状態が続いた。六月七日膠着状態に変化が現れた。 「おう、あの武者は」 包囲した武者達の視線を一点に釘付けにしたのは武者二騎。馬上で抜刀した刀剣を夕日にきらめかせた。 「安芸の熊谷直続ではないか」 「もう一人続いているのは」 「直純の傅人兄弟荒川与三だ」
城を取り巻く兵士達の衆人環視の中でそれは一際目だった行動であった。刀をふりかざすと突然大音声を張り上げたのである。 「我こそは、先の守護武田元繁の家臣熊谷元直の舎弟熊谷直続なるぞ。こたびの合戦では毛利元就殿の傘下で出陣そうらえども、元をただせば、室町幕府の七頭として栄し武田氏信の末裔なるぞ。そのまた元をたずぬれば、清和天皇の六代の末裔にして源の義光公こそは我等が先祖なり。赤穴の光清殿にはいでて尋常に勝負めされい」 と言い終わるや城めがけて突進したのである。これを合図に熊谷直続の手勢二百騎が直続の後を追った。 「又次郎よく見ておけ。これが礼法にかなった戦ぞ。近頃清々しい、戦いの作法よ」 「危ないですね。弓矢で射られたらどうするのだろう」 と又次郎が正直な感想を述べた。 「名乗りを挙げて、切りこむときは一騎討ちを求めているのだ。敵方の赤穴光清は出てきて熊谷直続と勝負するのが武士というものだ。者ども、射方やめー」 と家親が配下の兵に大声で怒鳴った。
暫く矢音が止み、城の大手門がひらきかけたので一騎打ちが始まるかと期待感が渦巻いたが、門は開かず、矢が一斉に飛んできた。熊谷直続の手勢の半分ほどが弓矢で射られ倒れたところへ門が開いて赤穴勢が一千騎程城外へ打ち出してきた。 直続は奮戦し目前の敵を討ち取ったが、多勢に無勢、だんだん追い詰められたところへ狙いすませて城の中から射られた矢を顔と喉へ射こまれて倒れてしまった。 「犬死にだ」 と又次郎は思った。 「家柄を誇り、出自の良さを自慢してみても死んでしまえばお終いだ。戦では必ず勝たねばならない。勝つことが正義だ。勝つためには弓矢の威力を十分引き出せるような戦術を考えださなければならない」 と呟いて自分に言い聞かせていた。 双方引かぬままに再び膠着状態が訪れたが7月27日未明、毛利元就は大内方四万の大軍で総攻撃を敢行した。
総攻撃では赤穴城のそれぞれの上り口に迫ったが、赤穴城からは小石が次々に飛んでくる。赤穴勢の必死の反撃に戦線を突破することができず、逆に退却した兵士も少なくなかった。合戦は長引くかと思われたが、まもなく赤穴城は陥落した。城主の赤穴光清が流れ矢に当たって無念の死をとげるというハプニングが生じたからである。総大将を失って戦意を喪失した籠城軍は光清の妻子を助けるという約束で開城し、その夜老幼合わせて三千人が月山目指して逃げていった。 この合戦での死者は双方合わせて千数百人に及んだと記録されている。

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