2005年08月10日(水) |
三村一族と備中兵乱15 |
遠征をしないときには、家親は鶴首城に家臣達を集めて会議を開いた。この会議は寄り合いと称し、領地の経営についても家臣達に智恵や意見を出させて自由に討議させた。農作方法の改善、武器武具の改良、輸送手段の改善、築城技術の改善等まで広範な領域にわたって家臣達の意見を広く取り上げた。現代の企業経営で従業員の参画意識を高め、やる気を喚起する方法として広く用いられているTQC的な発想を用いて領内の経営にあたったのである。
ある者が高梁川を利用した舟による交易を考え、積み荷を多くするため舟底の浅い高瀬舟を提案した。高梁川を南下すると玉島、水島を通過して瀬戸内海へ至る。高梁川の上流には良い品質の鉄鉱石が採れる千屋があり、成羽の吹屋では銅を産出したのでこれらの鉄や銅の一次加工品を舟で玉島まで運び水島灘を航行して下津井港に到り、ここに寄港する遣明船の帰り船に売り捌こうというアイデアである。帰り船は自由港堺へ向かうものであった。当時の堺は商人達が自治的な共同体組織を作り上げ、会合衆という数名から十数名の富裕な商人からなる機関が合議制で政治を取り仕切っていた。この堺の商人達は御朱印船に代わって遣明船を仕立てて対明貿易を行い、巨大な利益を得ていたのである。
そして、高瀬舟は積み荷を遣明船に売り捌くと瀬戸内海で採れる新鮮な魚貝類や沿岸地区で生産される塩を仕入れて帰り、内陸部の高梁地区の市で売り捌こうという着想としては優れたものであった。この高瀬舟の発想は家親によって取り入れられ実施された。この高瀬舟を更に発展させたのが備前の覇者となった宇喜多直家である。その宇喜多直家の客人として一夕高梁に遊んだ河村瑞軒が高梁川を往来する高瀬舟を見て感心し、後年京都に運河を開き高瀬舟を運河に浮かべて都会地への物資の大量輸送を実現したのである。
この寄り合いは天下の情報についての意見交換会の役目も果たした。その情報は安芸、出雲、備前、京都へもぐらせている諜者達からの報告を家親が解説する形で行われることが多かった。桶狭間で永禄三年(1560)織田信長が今川義元を討ち破ったこと、同年毛利元就が天皇家に対して即位資を献上したこと、長尾輝虎が皇居修理料を献上したこと尾張で永禄元年弓矢の名人林弥七郎と橋本一巴が鉄砲で決闘して鉄砲が勝ったこと等が話題となった。 「申し上げたいことがございます」 と弓衆の又次郎が寄り合いで家親に申し立てた。 「なんだ」 「お館様は鉄砲というものをご覧になったことがありますか」 「まだ、ない。しかし話によれば雷のような音がして弾丸が目にも見えない速さで飛び出し、的に命中させことの出来る武器だというではないか」 「よく御存じで。私は三村の弓衆には鉄砲を持たせたらいいのにと思っております」 「お主は鉄砲をどこで見た」 「福岡で見ました」 「堺まで行かねば見られないのによくまあ」 「実はわたしの弟が橋本一巴の弟子でして、師匠から貰ったのを持っています。それをみました」 「高いだろう」 「橋本一巴は一丁五百金で南蛮人から贖ったそうです」 「そんな高価なものは時期尚早だ」 「そうはおもいません。技術革新は早い程他に差別をつけて優位にたてると思います」 「よそで使い出してから様子をみてからにしよう」 「それでは、遅すぎます。こんなものは人に先駆けてやってこそ優位性がえられるのですよ」 「そうかそれでは試しに使ってみるか」 「御英断です」 「舶来品だというではないか。つてはあるのか」 「私におまかせ下さい。堺へ行けば手にはいる筈です」 「よし。それでは一丁見本に求めて来るがよい」 との家親の命令を受けて、又次郎は堺へ出奔した。


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