2005年08月16日(火) |
三村一族と備中兵乱21 |
九、松山城へ家親入城 松山城には上野氏を滅ぼした荘為資が猿掛け城から移ってきていた。この時期の荘氏は尼子氏と結んでいた。毛利元就と結んだ三村家親との二回に及ぶ戦いで決着のつかなかった猿掛け城攻防戦では、三村家親の嫡男を養子に迎えるという屈辱的な和睦を余儀なくされて猿掛け城は養子の元祐に譲って隠居したが、松山城も嫡男高資に譲っていた。猿掛け城が実質的に三村氏の支配下にはいった今、備中地方で尼子氏にとって最後の拠点となった松山城の守りを強化するために、吉田左京亮義辰が守将として派遣されていたが、城主の高資と折り合いがよくなかった。 「お館様、荘為資が死にました」 と諜者の家好が家親に報告した。 「死因は」 「卒中のようです」 「松山城の様子は」 「高資と義辰の仲がよくありません」 「不和の原因はなんだ」 「高資が備中の宇喜多直家と結ぶよう画策しているからです」 「若造め、背後から攻めようという魂胆か」 「宇喜多に対する備えをお忘れなく」 「憮川城を築城中じゃ」 「さすが、お館様。手のうちかたがお早い」 「高資は城にいるのか」 「いません」 「何処へ行った」 「備中の宇喜多に隠まわれている疑いがあります」 「為資が卒し、高資が城をでた今が攻撃のチャンスだな」 「御意」この情報を入手した家親は直ちに、琵琶法師の甫一を使者として毛利元就の許へ派遣した。知らせを聞いた毛利元就は直ちに香川光景と三村家親に出陣命令を下した。 家親は備中、備後の国人を集め、三千騎で永禄二年(1559)三月中旬松山へ撃って出た。
  
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