2005年08月17日(水) |
三村一族と備中兵乱22 |
義辰は世に聞こえた大剛の武将だったので手勢僅か三百でよく抗戦し家親、光景の軍勢をてこずらせた。しかしながら兵糧も尽きて残す所十日分ほどになったので、籠城の兵に最後の決戦を促した。 「三村軍には加勢があるので、いつもより兵の数は多く見える。城はすっかり取り囲まれたので、一人の命も助かる見込みはない。後は兵糧が尽きて身は疲れ力は落ちて、敵と太刀を交えることも出来ず、むざむざ飢え死にするだけだ。まだ精気が残っているうちに撃って出て、一方をうち破って落ちていこうと思う。もし敵が強くて切り抜けることができない時は、皆で枕を並べて討ち死にしよう」 「いざ戦おう」 「もとより覚悟の上」 と一族郎党は口々に決意を示し意気軒昂であった。 翌日四月六日全員二日分の兵糧を持って、大手門の門を開くと、なんの名乗りもせずに三村の陣へ切ってかかった。 これをみた三村勢は 「さあ、吉田が撃ってでたぞ。漏らさず討ち取れ」 としきりに命令して戦った。しかし、不意をつかれた三村軍は陣型を立て直すこともできず、軍旗は乱れ、弓は前後に混乱して撃てなかった。 敵が怯んだところを吉田義辰は 「孫子十三篇にいう、虚実の二字あり。敵の備えの虚なるところを撃ってこそ、必勝の術である。者ども続け」 と一文字に切って入った。 これに対して、真先に立ち向かった三村親房はここを破られてはかなわないと必死に切り結んだが、深手を負ってしまった。それを見た兵は気を削がれてしどろもどろになり、ついに五百騎の備えが崩れてしまった。 三村勢が引くのに替わって香川光景の兵三百騎が戦った。吉田義辰はここを破れば取りあえず切り抜けて落ちることができると考えて、ひときわ激しく戦った。 そこへ三村家親の隊一千騎ばかりが押し寄せ横合いから切ってかかった。戦死を覚悟した吉田が一歩も引かず戦っているうちにどうした弾みか、一隅を打ち破って、吉田は落ちていった。 これを見た三村家親は 「吉田軍は僅か二三百の勢力であったのに、上下ひとつとなって死を覚悟して戦うので我が大軍にもかかわらず逃がしてしまった。味方は多勢を頼み死を恐れたためにこんなぶざまなことになってしまった。どんなことがあっても負けるわけにはいかないのじゃ」 と怒りを爆発させた。 これを聞いて三村の郎党が我先にと追いかけると吉田義辰は引き返して戦った。はじめは七八十名程の兵が従っており、主人を討たせてなるものかととって返して戦い討ち死にするものもあり、或いは逃げ延びるものもあって、最後は西郷修理勝清ただ一人になってしまった。西郷勝清は主人をなんとか落ちのびさせようとして、数回敵に立ち向かい切りむすんだが股を二カ所突かれて、倒れもはやこれが最後かと思われたとき、吉田義辰が相手の敵を追い払い勝清の手を引いて落ちて行った。 勝清は主人に向かい、 「自分はたとえ、郷里に帰ることができてもこのように、深手を受けているのでとても療養できるものではありません。ましてや、前後の敵を打ち払って逃げることは難しいことです。どうか、私を捨てて、殿一人でも国へ帰られて晴久公にお仕え下さい。臣下を救うという義のために主君への忠節をおろそかにすることは、勇士や義人の本意ではありません。早く落ちて下さい」と再三諌めた。 しかし義辰は 「わしは戦場で討たれて、死にかけたことが何度かあったが、お前が身命を捨てて危ういところを助けられた。そのお蔭で度々功績を立てて名を上げることができた。この恩に報いないわけにはいかない。死ぬなら一緒ぞ」 と言って、手をとって肩に引っかけて落ちて行った。 そのうちに武装した土地の百姓達が、落人があると聞いて、馬や武具を奪い取ろうとして七八百人があつまり、逃げ道を遮った。義辰は大太刀を奮って切り払い、漸く川辺まで逃げ延びた。 一息ついて川の対岸をみると武装した百姓達二三百人が、弓矢をつがえて待ち構えている。後ろを振り返ると三村親宣が五六十騎で追いかけて来ている。 「勝清、こうなっては網にかかった魚と同じでもはや、逃れる術はない。自害しよう。お主死出の旅路の供をせよ」 と義辰が言うと 「私を打ち捨てて落ちれば、その機会は十分あったのに、自分を助けようとして敵に取り込まれるのは残念でなりません。自分の身がまともであれば、ここを打ち破って落として差し上げましょうに、却って足手まといになることが口惜しいことです。しかしながらその御志の有り難さは七世まで生まれかわっても忘れることはできません。どうか早く首を打って下さい」 と言って勝清は首を差し出した。義辰は太刀を振り上げて勝清の首を打ち落とした。そこへ義辰に縁のある禅僧が走ってきて 「まず、自分の寺に入りなさい。手だてを考えて落としましょう」 と言ったが義辰は 「命を助けようと思えば予ての謀も有りましょうが、勝清と共に死のうと決心したのでこのように敵に囲まれてしまいました。そのため貴僧にまで迷惑をかけるわけにはいきません。御志は有り難いと思いますが、どうかここは死なせて下さい。お情けあるならば一門の者へ自分の最後をお伝え下さい」 と前後の様子を詳しく語って、川中の石の上に腰を掛け大音声を張り上げた。 「吉田左京亮義辰という剛の者が切腹するのを見ておき後世の物語にせよ」と叫んで腹を十文字に掻き切り、太刀を取り直して自ら喉を押し切り、川の中へ飛び込んだ。これを見て周囲の敵の感じいった声は、しばし鳴りやまなかった。 三村親宣は義辰の首を取って帰り、主人の家親に見せたところ、家親も 「義辰は勝れた勇士である。懇ろに葬ってやれ」 と命じて、松月和尚という曹洞宗の僧を招き寄せて義辰の供養を懇ろに執り行った。
 
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