2005年08月18日(木) |
三村一族と備中兵乱23 |
十、 船山城攻め 三村家親は毛利元就と同盟を結ぶと、伯耆の不動嶽に立て籠もり尼子勢と休む暇なく戦った。その後法勝寺(鳥取県西伯町)にあって武威を振るい伯州を鎮圧した。しかしながら長年の遠征で、自国の防衛に手がまわらなかった。そこへ備前へ放しておいた諜者から浦上氏、宇喜多氏、松田氏の動きについて情報が入った。 「浦上宗景と松田将元が和議を結びました。裏で糸を引いているのは宇喜多直家のようです」 「証拠は」 「浦上宗景とは犬猿の仲だった将元自身が、宗景の居城天神山城へ出仕するようになったし、直家の二人の娘のうち一人を将元に嫁がせたことです」 「それだけか」 「さらに直家はもう一人の娘を美作の三星城城主後藤勝元へ嫁がせました」 「後藤勝元は尼子の傘下だった筈だが」 「そこが直家の老獪なところで、後藤を尼子から離脱させ浦上と同盟を結び北の脅威をなくしておこうという魂胆です」 「狙いは」 「備中へ侵攻してくる準備かと」 当初は自国の勢力を維持するだけの目的で尼子氏と結んでいた備前の松田氏であったが三村家親の不在を狙って備中に手を出して領地を侵犯しはじめた。知らせを受けた家親は尼子氏の勢力が衰え僅かに出雲の富田城一つを維持するに過ぎなくなったことでもあるし家親が伯州に留まっている必要もなくなったので暫く本国へ帰って領地を固め、松田氏を討って備中から尼子の勢力を駆逐したいと毛利元就に願い出た。 「尾張の織田信長が今川義元を桶狭間で打ち破り(1560)美濃をも攻略して、都を窺っています。殿も早く都を目指して下さい」 「都を目指すには、備前と播磨を攻略して置かねばなるまい」 「備前攻めはお任せ下さい。存分にお役に立ってご覧にいれます」 「頼もしく思うぞ」 「ついては、備中へ帰国することをお許しください」 「あい分かった」 許されて備中へ帰ってみると松田氏は今まで敵対していた宇喜多直家と和睦し浦上宗景の麾下として備中進出を企てているということが分かった。浦上氏の家中では、宇喜多直家が新興ではあるが最大の実力者になっていた。浦上氏の意向もあって松田氏は直家と同盟し、三村氏に対抗しようとしたのである。 金川城主松田元輝の嫡男元賢と宇喜多直家の娘との結婚はこのような背景のもとに行われた政略結婚であった。 帰国した三村家親は、電光石化の如く備前に進出して金光与次郎の拠る石山城(1563)を攻めこれを一気に落とした。次いで船山城(1563)を攻撃してこれも難なく落とし、須々木豊前らを降参させて備中へ引き揚げた。 永祿八年(1565)五月三村家親は美作へ出陣し、後藤勝元の三星城を攻めた。後藤氏の三星城は現在の英田郡美作町明見にあった山城で梶並川と滝川の合流点の西側に位置していた。城主の勝元は、金川城の松田氏と同様これまで尼子氏の支配下にあったが、尼子氏の衰退に伴って離脱し、西の三村氏に対抗するため東備前の浦上氏と結んで、東美作の地を浦上氏と分けあったのである。また勝元は宇喜多直家の娘婿でもあったから宇喜多直家は三星城への応援として馬場次郎四郎に足軽を添えて美作へ行かせた。
 
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