2005年08月20日(土) |
三村一族と備中兵乱25 |
軍議を決めた三村家親は鶴首城を出陣し、永禄8 年11月(1565)陣山から高田川を挟んで三浦貞勝の拠る高田城に猛攻撃をかけた。 作州高田城は、大総山と称する山に築かれた山城である。別名勝山城とも称し、標高322メートルの如意 山に本丸があり、その前の標高261メートルの勝山には出丸がある。両山とも鬱蒼とした常緑樹に覆われて いる。 初代の城主は三浦貞宗で東国から地頭としてこの地に移って来て、南北朝時代が終結する頃、この地に築城した。遠祖は関東の豪族三浦大介義明である。 三浦氏は室町時代、戦国時代にかけて、美作の真島、大庭両郡を支配し美作西部に覇権を樹立していた。しかし天文17年(1548)落城の悲運に遭遇した。同年9 月16日に第十代当主三浦貞久が病死したのを奇貨として、予て美作の地を狙っていた尼子氏が攻め入ったのである。貞久の跡を相続した第十一代城主は未だ10才の嫡子貞勝であったが、伯耆国日野郡より南下してきた尼子軍に攻撃され落城の憂き目にあってしまった。尼子軍の大将は宇山久信であった。城主の貞勝は家臣達に守られ城を捨てて脱出した。高田城の守将に選任されたのは尼子軍の宇山久信である。 尼子氏は天文17年(1548)から永録2 年まで11年間高田城を占拠していた。落城後、備前や備中の山野に雌伏していた三浦一族は永録2 年3 月(1559)備前の浦上氏の援護を受けて高田城を攻撃し奪回に成功した。城の奪回戦に活躍した重臣の舟津、牧金田等の諸氏に助けられて、城主として返り咲いたのが貞勝であり22才に成長していた。 貞勝は23才になったとき、15才のお福を妻に迎え桃寿丸という男子を設けた。お福は絶世の美女で三浦氏の庶族三浦能登守の娘であった。 三村家親軍の猛烈な攻撃をうけながらも、三浦軍はよく抗戦し一ヵ月が過ぎた。攻めあぐんでいる三村家親の許へ諜者の総帥である琵琶法師の甫一から耳寄りな情報が入った。予て城へ潜入させていた諜者の一人から知らせてきた情報とは次のようなものであった。 「高田城主貞勝の妹・勝つ姫に重臣の金田源左衛門が懸想していたが、貞勝がお勝を舟津弾正という重臣に嫁がせたので、源左衛門は貞勝に恨みを抱いている」 「それだけか」 と家親が聞くと 「そればかりでなく、奸智にたけた源左衛門は、恋仇の舟津弾正を誣告して切腹させてしまった。このように、自分本意の邪悪な心を持った男だから、餌を撒けば食いついてきます。今、寝返るよう説得していますから、間もなく手引きするでしよう」 「餌は何を撒けばよいのか」 「命を助け所領を安堵した上に切腹した舟津弾正の所領を与えることです。如何でしようか」 「それだけで源左衛門は動くか」 「必ず動きます」 「何故分かる」 「欲の深い人間は餌が大きい程うまく釣れます。御決裁下さいますか」 「良かろう」 やがて、隠密裏に示し合わせた三村軍は源左衛門の手引きによって城へなだれ込み城を落とした。 貞勝は三村軍が城内に進入してくると妻のお福へ毅然とした口調で言った。 「三浦一族は団結力を誇ってきた決死の強者揃いの軍団じゃ。しかし今度ばかりは難しそうじゃ。団結を破る内通者がでたからじゃ。浦上氏へも救援を頼んでおいたが間にあいそうもない。かくなる上は武門の意地を通して城を枕に討ち死にする覚悟じゃ。しかし福は女子じゃ。桃寿丸を護って逃げてくれ。血筋を残すのは女子の勤めじゃ。桃寿丸を無事に育てて、父の無念を晴らしてくれ」 貞勝の反対を許さぬ厳しい言葉に促されたお福は桃寿丸を抱き、牧管兵衛、牧河内、江川小四郎ら僅かな近臣に護られて囲みを切り抜け城を脱出した。美作の国境を越え、備前津高郡下土井村まで落ちのびた。 一方、貞勝は、敵の目を欺くために、自分達は反対側の急峻な崖を近習十一人と駆け降りたのである。そこは城の麓を西へ迂回して流れている高田川の川岸であった。 「ここまで来れば、陣山とは視界が遮られているので追手に見つかることはないでしょう川を渡れば組村です。そこまで行けば大丈夫だと思います」 と近習の一人が言った。 「組村から北の尼子領に入って暫く時節を待つことにしよう」 と貞勝主従が高田川を渡って、這いあがるところを三村の兵三騎に見つかってしまった。城主が脱出したと知った三村軍が先廻りしていたのである。貞勝は近習を指揮して戦い自らも槍を奮って敵を突き伏せた。漸く血路を開き組村へ入り、三浦谷へ逃げ込んだ。山や谷を伝って、尼子領へ逃れようと北を目指した。ようやく井原村蓬の薬師堂まで辿りつき疲労困憊した体を休めていたところを追跡してきた三村軍に襲われた。貞勝主従は最後の力を振り絞って血刀で防戦したが、運命の尽きたことを悟った貞勝は薬師堂に籠もって家臣達に言い残した。 「腹はわし一人が切ればすむ。汝らは逃げのびてくれ。必ず生きて三浦家の再興を図って欲しい。貞勝最後の頼みじゃ。逃げてくれ」 貞勝は薬師堂で自ら腹を切り22年の生涯を終えた。
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