2005年08月30日(火) |
三村一族と備中兵乱34 |
十二、 明禅寺合戦 備中の松山城では、家親の喪が明けた永禄九年(1566)四月重臣達が集まって家親の弔い合戦のことを協議した。家親には嫡男四人と庶腹の男子二人の他女子三人が残された。嫡男は長男元祐、次男元親、三男元範、四男実親である。他に庶子としては出家した河西入道と三村忠秀がいる。女子は長女が幸山城(都窪郡山手村西郡)城主石川久式の正室、次女が月田山城(真庭郡勝山町月田)城主楢崎元兼の正室、三女が常山城(玉野市字藤木)城主上野隆徳の正室となった鶴姫である。 長男元祐は知勇兼備の将といわれた父家親の性格をもっともよく受け継いだ人物といわれ、父家親が猿掛け城の荘為資を攻撃したとき勝負がつかず、毛利氏の斡旋で荘氏の養子となり、永禄二年から猿掛け城主に納まっていた。毛利氏の戦いには数多く参戦し勇名を轟かせた。 備中の松山城を相続したのは次男の元親である。元親以下三男、四男はまだ若輩であった。 「亡き殿の喪も明けたことだし弔い合戦をしよう。われら三村家は備中の名門である。亡き殿は備中の虎といわれ、その武名を天下に轟かせた智勇兼備で、有徳の名将でおわした。それにひきかえ備前の宇喜多直家は浮浪者あがりで岳父を騙し討ちして沼城主となった没義道な男である。まともに戦えば勝てないことが判っている家親の殿を卑劣にも鉄砲で闇討ちした男である。一刻も早く、備中へ攻め入って仇討ちをしましょうぞ」 と強硬に弔い合戦を主張したのは三村五郎兵衛であつた。 「偉大な殿が亡くなられた今、徒に血気にはやるのは如何なものか。敵の思う壺じゃと思わぬか。ここは一族で結束を固め、若い元親元範、実親の三兄弟をもりたてていくことが肝要じゃ。御兄弟が成人なさってから一戦を交わえるべきじゃ」 と当主が若いことを理由に時期尚早論を述べたのは、元親の叔父孫兵衛親頼である。 親頼は三村氏が松山城へ入城した後、成羽の鶴首城を預かっていたのであるが、バランス感覚には優れたものを持っており、家親の良き参謀役であった。 意見は即戦論と時期尚早論に別れたが、並みいる家臣達の多くが親成の時期尚早論を支持した。 軍議も意見が出尽くして終盤になった頃、五郎兵衛は立ち上がって言った。 「成るほど大方の諸君が言われるように若い三兄弟を育てあげてからことに当たるというのは正論じゃろう。しかしながら、私は皆も知っての通り、愚昧なため忠義だけで生きてきたような男じゃ。私が生き延びても御兄弟の育成には少しもお役にたてることはないじゃろう。さればこそ、死して亡き家親殿に忠義を励もうと決意したんじゃ。皆は生き長らえて御兄弟の養育育成に功績をたてんさりゃぁよかろう。今生の別れですらあ」 と言って深々と一礼すると軍議の席から退出した。
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