2005年08月31日(水) |
三村一族と備中兵乱35 |
五郎兵衛は直ちに一族若党五十余騎の軍装を整えて出陣したので、道中話を聞いて加勢に参じた家親恩顧の国人達もあった。しかし総勢百騎にも満たない小軍団である。一同は一途に、討ち死にを覚悟して近くの禅院に赴き、松峰和尚に逆修の法事を依頼し鬼伝録に一同の名前を記してから焼香三拝した。 三村五郎兵衛は宇喜多直家へ使者をたてて 「主君家親の無念を晴らすべく弔い合戦に出向いてきた。尋常に勝負せよ」 と挑戦状を突きつけた。 手勢を二手に分けて、一手は矢津越えして直接沼城へ攻撃をかけさせた。もう一手は五郎兵衛が自ら率いて釣りの渡しより南へ迂回して進撃した。 物見の兵から五郎兵衛の動きを聞いた直家は弟の七郎兵衛忠家を総大将に任命し、長船越中守、岡剛助、富川肥後守、小原新明等を配して三村軍を攻撃させた。 「五郎兵衛は三村家中でも最強の勇士であるから、彼を討ちとったら三村家の柱礎石を破壊したようなもので、その後の三村軍団の退治はたやすくなるのは必定。手柄をたてたいと願う者は撃って出よ」 と直家は下知した。
宇喜多軍は総勢三千騎である。戦闘は最初に釣りの渡しより南へ迂回してきた三村五郎兵衛率いる五十余騎と長船・岡麾下の宇喜多軍との間で火蓋が切って落とされた。僅か五十騎の軍団ではあったが、忠義を死後の世界に残すのが武門の習いと死を覚悟した五郎兵衛の軍勢は強かった。五十余騎をひとつに纏めて、一番先に控えていた長船越中守の一千余騎の真ん中に撃って入り、暫く戦ったのちこの隊列を撃ち破り、二陣にいた明石飛騨守の隊列に切り込みをかけ、四方八方に奮戦した。さすがの宇喜多勢も浮き足たったが、やがて総大将の七郎忠家の率いる本隊が三村軍の横合いから攻めたて三村軍の背後に回り込んで攻撃したので、勢力を挽回し、さしもの三村軍も全員壮烈な戦死を遂げた。 一方、矢津越より東進して沼城へ襲いかかった三村軍には富川平右衛門の軍勢がこれを迎え撃った。この戦いでも決死の三村軍の攻撃に宇喜多軍はたじたじとなり劣勢であったが、小原藤内の率いる後続部隊が後詰めに駆けつけたため態勢を挽回した。多勢に無勢で結局ここでも三村軍は全員はなばなしく戦死した。しかし、直家はこの合戦で家親亡きあとも三村軍は手強い相手であることを思いしらされた。戦闘に参加した宇喜多軍の将兵のうち小原藤内、高月十郎太郎、矢島源六、宇佐美兵蔵ら四十七人を失い、百余人の怪我人をだしたからである。 近い将来、三村軍は勢力を養ってから備前平野に侵攻してくるに違いないと考えた直家は上道郡沢田村の明禅寺山に堅牢な城砦を築き始めたのである。
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