2005年09月01日(木) |
三村一族と備中兵乱36 |
明禅寺山は標高109 メートルでもと明禅寺という古い寺があったので明禅寺山と土地の者が称している古寺跡の山塊である。この城砦は備中から沼城目指して進撃してくる敵軍を俯瞰するのには最適の場所に位置していたし、備前の直家配下の諸城と連絡を取り合うにも好都合な場所であったが、直家の本当の狙いは別のところにあったのである。沼城へ進撃してくる三村軍をこの明禅寺山におびき寄せることであった。 直家の予想では三村軍の動きは二通り考えることができた。ひとつは直家の狙い通り敵軍がこの城へ襲いかかってくれば、直家の本隊が沼城から後詰めに兵を出し背後から敵を挟み撃ちするのである。あと一つは、もし敵軍が沼城へ直接攻撃をかけてくれば、この明禅寺城から味方の兵が出撃して三村軍の背後を攻撃することが可能になるのである。 諜者の報告により直家が明禅寺城を築いて三村勢の備前侵攻に着々と備えているということを知った三村家中では、軍議の席で主戦論が澎湃として沸きたった。 「家親殿の仇を討つために、決起した五郎兵衛達の忠心を無駄にするな」 と荘元祐が言うと石川久智がうなづきながら言った。 「城主元親殿の成人を待っていては宇喜多の勢力を強化するだけじゃ。宇喜多の汚いやりかたに家中全員が憤激している今こそ、好機ではないか。五郎兵衛達が善戦したのも、忠義の心が冷めないで燃え上がっていたからじゃ」 「岡山城の金光与次郎、舟山城の須々木行連、中島城の中島大炊等に命じて沼城攻撃の準備をさせ、この包囲網で宇喜多が動けぬよう圧力を賭けるのがよかろう」 と石川久智が提案した。 「あの連中はこうもりのように、ふらついているから油断はできないぞ」 と植木秀長が言った。 「彼らをわが陣営に縛りつけておくためにも、早く宇喜多を叩いておかなければならない」 と三村政親が尻馬に乗った。 主君家親を卑怯な手段で謀殺した宇喜多直家憎し必ず仇を討つべしと復讐の鬼心に凝り固まった三村家中のものはことあるごとに国境を越えて備前領へ侵攻を進めていた。特に祢屋与七郎、薬師寺弥五郎は対宇喜多決戦に備えて、隙あらば明禅寺山城を攻撃し敵方勢力を削いでおこうと龍の口城に宿借りして虎視眈々狙っていたが、永禄十年(一五六七)春遂に好機が到来した。激しい風雨が荒れ狂った夜、予ての手筈通り精鋭百五十人で夜討ちをかけ沢田村を焼き払って、明禅寺山城へ攻め入ったのである。不意に寝込みを襲われた城兵達は敵味方の分別もできずなすすべもないままに散り散りとなって、南の山を越えて中川村へ逃れ漸く沼城へ引き揚げた。 明禅寺山城が敵の三村方に渡ったことを知った直家は反間(はんかん)を放って備中勢の誘い出し作戦を開始した。 「従来、三村氏の傘下にあった岡山城の金光氏、舟山城の須々木氏、中島城の中島氏はいずれも宇喜多直家の調略に踊らされて宇喜多方へ寝返った。もし三村の軍勢が備前平野へ進撃してくればこれらの三城主は連携して三村軍を包囲攻撃するだろう」 という噂を言いふらさせたのである。 これは直家が仕組んだデマの情報である。三村氏を後援している安芸の毛利氏が出雲の尼子氏を富田月山城で滅ぼしたあと、伊予の騒動に力いれして備前にまで手が回らないこの時期に、はやく三村氏を明禅寺山城におびき出し、打撃を与えておかなければならないと考えた直家の陰謀であった。 「宇喜多軍が岡山城の金光氏や中島、須々木の軍勢と提携してこの城へ押し寄せてくるという噂を耳にしました」 と諜者が祢矢・薬師寺の守将へこのデマ情報を報告した。小人数で強敵宇喜多氏と対峙している祢矢・薬師寺の両守将は過敏に反応した。疑心暗鬼が生じたのである。 「宇喜多攻略の橋頭堡として確保した明禅寺山城が危険に晒されています。至急援軍をお願いします」 という伝令が松山城の三村陣営に駆け込んだ。 この祢矢・薬師寺両将による明禅寺山城奪取事件と備前の金光・中島・須々木三氏が敵方へ寝返ったという情報は、三村家中の主戦論に火をつけた。打倒怨敵直家で松山城内は沸きかえった。直ちに作戦会議が開かれ、沼城を西・北・南の三方から包み込むようにして、同時に攻撃する三面作戦がたてられた。 総大将は三村元親である。総勢力二万人は辛川に結集して三軍に編成した。先陣は荘元祐の率いる七千余人で金光与次郎を案内者とし富山の南の野を斜めに押し進み、春日社の前の川瀬を越え、瓶井山沿いに明禅寺山への進出を図った。中軍は石川久智を指揮官として五千余人の兵員を従え、上伊福村の中道から岡山城の北にある瀬を渡り原尾島に進出して明禅寺山を攻める直家勢の背後を襲う手筈であった。
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