前潟都窪の日記

2005年09月03日(土) 三村一族と備中兵乱38

 大将に遅れてならじと将兵達も勇み立ち城に怒濤のように攻め寄せた。城兵達も必死に防戦したが、勢い負けして城は忽ちのうちに寄せ手に乗っ取られてしまった。寄せ手は櫓に火を放ち散々に切りまくった。守将の祢矢も薬師寺は必死に防戦し
「この城こそ三村の生命線じゃ。もちこたえろ。援軍が間もなくやってくる。それまで耐えろ」
と絶叫して臆する城兵を叱咤した。

 しかしながら、全軍を一まとめにして怒濤の勢いで攻め込んでくる宇喜多軍に対してさしもの祢矢と薬師寺の守衛軍も力尽きて瓶井山へ退いた。逃げ遅れた兵士は追い詰められて切り殺された。
 明禅寺城で戦闘が行われている頃、刻一刻明禅寺城へ進撃してくる二手の隊列があった一つは右翼先陣の荘元祐であり、他の一つは中央軍の石川久智である。
「あれっ、操山の向こうに煙が上がっているぞ。宇喜多勢が、攻撃しているものとみえる。急げ、急げ」
と荘元祐は馬上から煙のほうを指さして指揮下の軍勢を叱咤した。
 作戦によれば、元祐の右翼軍と石川久智の中央軍と南北相呼応して、明禅寺城を攻撃中の直家軍を挟み撃ちするのが狙いであった。城が落ちてしまってはこの作戦は成り立たない。気ばかり焦るが複雑な地形に妨げられて中々目的地へ到達しない。ようやく瓶井寺村の南を通って操山の麓に到着したとき、運悪く敗走してくる明禅寺城の城兵とぶつかってしまった。味方の兵の敗走を見て怯んだとき、敗走軍の背後から、宇喜多軍の追撃隊が鬨の声をあげながら襲ってきたから混乱は増すばかりで、元祐率いる新手の精鋭部隊はさしたる抵抗もできないままに次々と討ち取られてしまった。
 荘元祐はそれでも馬上から
「ここで敵に後ろを見せては末代の恥辱。返せ、返せ」
と采配をうち振るったが、機先を制せられて意気消沈した味方の頽勢を挽回することはできなかった。

 元祐は家臣の有岡某と二人で五十人ばかりの旗本を従えて踏みとどまり奮戦したが、最後は浮田忠家の軍勢と切り結んで危ないところを辛うじて逃げのびた。大将が逃げたので麾下の兵は総崩れとなった。元祐を際どいところまで追い詰めたのは宇喜多勢の能勢修理という旗本であった。
 中央軍の石川久智は明禅寺城を攻撃中の直家軍の背後を突こうと原尾島村の西まできたとき明禅寺山に火煙があがったのを見た。
「これは」
と思って進軍を中止し、様子を窺っていると斥候が帰ってきて、右翼軍が敗走を始めたことを告げた。
 石川久智は中島加賀という老練な家臣を呼んで尋ねた。
「予め立てた戦略が、こうも狂ってしまっては今更直家の陣へ挑んでも勝利はおぼつかない。ここはむしろ元親の本隊へ合流して改めて直家に合戦を挑んだほうが得策と考えるがどうか」
「ごもっとも。敵の近づかぬ間に旭川の西側に撤退して、備えを固め直家が川を渡って攻めかかってくるところをその途中で迎え撃つことくらいしか、策はありませぬ」と中島は言った。しかし久智の老臣達はこの意見に従わず、軍議を開いた。

 このとき浮田元家・河本対馬・花房助兵衛が三手に分かれて石川久智の陣近く攻め寄せてきた。石川久智は進むことも出来ず原尾島村の中道に備えを設けて防戦したが、中島加賀はじめ多くの将兵が討ち死にし、石川久智は暫く留まって防戦した後、やがて引き揚げた。


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