2005年09月04日(日) |
三村一族と備中兵乱39 |
左翼の総大将三村元親はこの日の朝、巳の刻に釣りの渡しを越えて、中島大炊の先導で湯迫村より四御神村へ出た。ここから土田、古都宿を突破して沼城を襲う計画であった。 ところが、四御神村までやってきたとき、右手の明禅寺山に火煙があがっているのが見えた。さらに中央軍の石川勢は宇喜多軍に攻撃されて敗走しているという伝令が駆け込んできた。 「敵より四倍も多い兵力がありながら敗退するとは。信じられない」 と元親は絶句した。 後続部隊では歩速が鈍り、動揺が起こったようである。背後から襲撃されるのではないかと逃げ支度を始める者もでる始末である。付近は湿地帯であったから、泥田に足を取られるものが多くなり、隊列は混乱し乱れ始めた。さすがに先頭の旗本精鋭部隊は少しも備えを乱さなかったが、後陣の乱れはひどかった。このまま当初の計画通り沼城へ進撃すれば、守備兵の少ない沼城を落とすことができたかも知れないのに、味方の敗走を見て若い元親は判断を誤った。作戦を変更したのである。 「作戦を変更する」 「これより明禅寺山へ向かい、敵の本陣小丸山を攻撃する」 と侍大将が下知を大声で伝達して廻った。 「皆のもの、急げ、遅れをとるな」 隊列は方向を変えて明禅寺山目指して動きだした。これを小丸山から眺めていた直家は勝利を確信した。もっともおそれていた三村本隊による沼城襲撃が回避できたのである。「こわっぱ目、罠にかかったか」 と直家は口笛でも吹きたい気分であった。 元親を迎撃するために直家は白兵戦の陣立てを敷いた。最前線には備前軍の中で最強を誇る岡剛助と明石飛騨を置いた。後陣にはついいましがた国富村で荘元祐の軍勢を叩きのめした富川、長船、延原の部隊を配置した。 元親にとってこの合戦は父親の弔い合戦であったから、溝も畝も構わず一直線に明石、岡の備えに切り込んだ。捨て身の覚悟の突撃に明石も岡も斬りたてられて崩れ始めた。元親は今が勝機とばかり一挙に直家の旗本へ斬りかかろうとした。ちょうどそのとき、富川長船、浮田、延原の軍勢が鉄砲を撃ちながら横合いから元親軍の旗本勢へ攻めかかった。 援軍に力を得て岡、明石の兵も戦列へ復帰し三方から元親勢を攻めたから元親勢は狼狽して総崩れとなってしまった。 元親は悲憤に堪えず 「今こそ討ち死にする時ぞ」 と覚悟を決めて敵陣へ突入しようとしたとき、家来が馬の口をとり西へ向けて思い切り鞭をくれたので馬が狂ったように走りだした。大将が敵に背を向けたから左翼の軍勢もまた総崩れとなって竹田村の北まで引き揚げた。 宇喜多勢はこれを追跡し三村軍の首を多数討ち取った。 元親と石川久智は釣りの渡しを越えてほうほうの態で備中へ引き揚げた。この日の戦いを「明禅寺崩れ」といい、宇喜多にとっては躍進の三村にとっては衰退の契機となった、この時代備中地方最大の合戦であった。 明禅寺の合戦は備前の宇喜多氏と備中の三村氏が二年間にわたって綱引きをした大合戦であった。勢力人望ともに三村氏が勝っていた。それなのに僅か四分の一にも満たない勢力の宇喜多氏が勝利を得るとは誰も想像しなかった。宇喜多方の大勝利に終わったので、いままで三村方についていながら宇喜多に内通していた金光、中島、須々木等の西備前の城主達は直家に降参した。 この年織田信長は滝川一益を大将として伊勢の諸城を落として後、越前朝倉義景の許に身を寄せていた流浪の将軍足利義昭を美濃の立政寺に迎えて会見し多数の贈り物をして足利義昭を手厚くもてなした。義昭も信長の処遇に感激し「親とも頼る」と言っている。信長が義昭利用して上洛を意識し始めた時であった。
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