2005年09月05日(月) |
三村一族と備中兵乱40 |
十三、 毛利方に決別 明禅寺合戦で三村元親に大勝した宇喜多直家は余勢をかって、備中国を切り取ろうと目論見、永禄11年(1568)8月に舎弟七郎兵衛忠家を総大将として九千余騎で侵攻を開始し、佐井田城を包囲した。毛利元就が 麾下の備中勢を率いて、九州大友氏征伐のため出陣した留守を狙っての作戦であった。城を守っていた植木秀長は、毛利方の備中松山城主三村元親や猿掛け城主荘元祐に救援を要請したが、彼らは九州の立花で大友氏と交戦中であったため、援軍を送ることができなかった。やむなく植木秀長は妻子や一族の安泰をはかるため膝を屈して、宇喜多陣営に加わった。 これに対し、毛利元就は翌年毛利元清を総大将として一万余騎で備中国へ反撃を開始した。九州遠征の留守を突かれた元就が奪われた備中の諸城を奪還するためである。九州から帰還した三村元親が先鋒を務めた。元親と穂田実親らは植木秀長の籠もる佐井田城を包囲したが、宇喜多の援軍を得た籠城軍がよく奮戦した。そのうえ城は地の利を活かした要害であるためなかなか落ちそうになかったので元清は兵糧攻めを開始した。植木秀長は巧みな用兵でしばしば城を打って出て包囲軍を悩ませたが、食料が底をついてきたので峰木与兵衛を沼城の宇喜多直家の許へ走らせ更に援軍を乞うた。 直家は一万騎を従えて自ら出馬し、佐井田城の東方一里近く隔たった丘に陣を構えて毛利軍の背後を突いた。ところが毛利軍の猛将熊谷信直と桂元隆の率いる軍勢が裏をかいて宇喜多軍の更に背後から攻撃した。敵に前後を挟撃されて宇喜多軍は130余人を討ち取られた。戦局は長引き長期戦の様相を呈した。戦局の膠 着状態に業を煮やした籠城中の宇喜多勢が 「あと二、三日で食料が尽きる。無為に籠城して餓死するよりは、敵と渡り合って討ち死にした方がよい」 と戦死を覚悟で一斉に城門を開いて突撃し迎え撃つ毛利軍との間で凄絶な白兵戦が繰り広げられた。 局面が変わったのは宇喜多軍の誇る勇将花房助兵衛が毛利軍の侍大将穂田与四郎と槍を合わせてこれを討ち取ってからである。気勢を削がれた毛利軍は総崩れとなった。猿掛け城の穂田実近が戦死し松山城の三村元親も深手を負ってしまったので元清はやむなく退却した。この時宇喜多軍が討ち取った敵の首級は680に 及んだ。 永祿九年(1566)11月月山富田城が毛利元就の手に落ち滅亡した尼子氏は遺臣達が諸国を流浪しながら尼子再興を目指して活動していたが、山中鹿之介幸盛、立原源太兵衛久綱らが新宮党の遺児尼子勝久を擁立して旗揚げした。永禄12年(1569)6月のことである。 勝久は反毛利の宇喜多氏と提携し、秋上三郎左衛門綱平を大将として備中へ兵二千余騎を派遣した。尼子・宇喜多連合軍は幸山城(都窪軍山手村西郡)、呰部(あざえ)城を攻め、佐井田城へ迫った。城主は植木秀資で秀長の跡を継いで毛利氏に服属していた。秀資は松山城の三村元親や猿掛け城の荘元祐に援軍を求めたが、折悪しく元親は毛利輝元に従軍して出雲へ出陣中であった。猿掛け城からは荘元祐の援軍が駆けつけ秀資もよく戦ったが、結局元亀元年(1570)冬白旗を掲げ、尼子軍を迎えいれた。 労せずして佐井田城を手に入れた秋上三郎左衛門綱平は尼子式部、大賀駿河守を残して出雲戦線へ復帰した。 尼子式部、大賀駿河守の両備中派遣軍は宇喜多軍の応援を得て、備中鴨方の杉山城、備中酒津村の酒津城、備中幸山城(都窪郡山手村)を次々に落とし、城主中島大炊守元行の経山城(総社市黒尾)を攻めた。中島大炊守元行は塹壕を掘ったり矢蔵門道に陥穽を設けたり或いは橋を引き落とす工夫を施したり、農民兵を組織するなどの策略を用いて尼子の備中侵略軍を撃退した。この経山合戦で尼子軍は376人の将兵を失って いる。尼子軍は大きな犠牲を払って佐井田城へ退却した。 ご訪問の記念に下記をクリックして頂ければ幸甚。
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