前潟都窪の日記

2005年09月06日(火) 三村一族と備中兵乱41

 元亀二年(1571)9月、出雲戦線から帰国した三村元親の軍勢が再び総師毛利元清の率いる八千騎の先鋒 として佐井田城に攻撃をかけた。このとき直家は主君の浦上宗景と提携して毛利軍に立ち向かう共同戦線を結成していたので、佐井田城の中には浦上宗景の武将岡本秀広と宇喜多直家の武将河口左馬進及び原二郎九郎の三人が城兵を率いて籠城していた。この年毛利元就は黄泉の国へ旅立っている。僅かな人数の尼子残党が宇喜多氏の加勢を得たからとはいえ、備中の諸城を攻略できたのは、毛利の偉大な指導者が死去して新体制が整備できていないという毛利の弱みにつけこむことができたからであり、三村氏が明禅寺崩れで大きな打撃を被っていたからでもある。 
 佐井田城に滞留していた尼子残党は勝久の尼子再興軍が滅亡の危機に瀕していると聞いて出雲へ帰って行った。
 9月4日、三村・毛利連合軍と浦上・宇喜多連合軍との間で決戦の火蓋が切って落とされた。浦上・宇喜多連合軍は佐井田城中から城門を開いて撃って出て、城外で白兵戦が展開された。
 三村元祐は二千余騎を率いて攻撃に参加していたが、敵の凶刃に倒れてしまった。毛利元清の陣中でも長井越前守が宇喜多軍の片山与一兵衛によって討ち取られた。三村・毛利連合軍は完敗して退却した。
 三村・毛利連合軍が備前の浦上・宇喜多連合軍に破れたことは名門毛利輝元の面目を失うものであると同時に宇喜多直家の西進への野望に自信を持たせるものであった。
 当時浦上宗景は直家と諮って豊後の大友義鎮や阿波三好氏の武将篠原長房と提携し西と南に毛利氏の包囲網を張り備中の毛利領の蚕食を始めていたので、毛利陣の先鋒三村元親は一刻も早く毛利軍が総力をあげて浦上・宇喜多連合軍を撃滅するための討伐軍を派遣するよう懇願した。
 元亀三年(1572)6月毛利輝元は軍議を開き、元春、隆景の両将及び重臣達の賛同を得て7月16日に大挙して備前、備中遠征に進発すると内外に宣言した。
 標的とされた浦上・宇喜多は本格的な毛利軍の攻撃宣言を耳にして慌てて特使を京都へ派遣し将軍足利義昭に毛利氏との講和斡旋を要請した。しかし毛利輝元は将軍義昭の講和斡旋を拒否して7月26日備前、備中 遠征の途についた。南北の毛利軍を糾合し、先鋒は隆景が受け持った。8月15日備中笠岡に着陣し9月から東備中の城を攻撃して備前領内へ侵入を開始した。
「今までの毛利軍と違って今回は本気のようじゃな」
と浦上宗景が言うと
「さよう。伊予で大友軍と戦っていて全力を投入できまいとたかをくくっていたら、大友軍が撤退してしまったので、伊予派遣軍までが参戦しているようです」
と直家。
「まともに向かって勝算はあるか」
「無理でしょう。このままでは滅亡あるのみです」
「なんとかうまい手はないものか」
「もう一度将軍義昭様に和睦の斡旋をお願いするしかないでしよう」
 再度、急使が京都へ派遣され義昭に調停を懇願した。織田信長の援助で将軍位に復帰したものの、信長としっくりいっていなかった義昭は喜んで斡旋の労をとった。東福寺退耕庵の蔵主安国寺恵瓊を呼んで輝元宛ての将軍からの下し文を手渡すよう命じた。浦上宗景宇喜多直家と和睦するよう説得した書面である。安国寺恵瓊は将軍下し文を携えて直ちに輝元の本陣へ赴いたが、義昭は毛利が自分の新しい保護者になるよう打診させることも忘れなかった。

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