2005年09月08日(木) |
三村一族と備中兵乱43 |
天下布武を目的として都に入った信長と第15代将軍義昭の親密な関係は長くは続かなかった。将軍とは名ばかりで実権の伴わない傀儡だと気がついた義昭は全国の豪族に檄をとばし打倒信長を画策した。 この呼びかけにいち早く応じて、天下に覇を唱えようとしたのは甲斐の武田信玄であった。彼は天正元年4 月(1573)三万の大軍を率いて西上の途についたが、志半ばにして信長と干戈を交えることもなく病没した。 信玄なきあと天下を統一するのは信長であろうと目されるようになっていた そのころ山陽路では安芸の毛利備前の浦上と宇喜多、備中の三村といった新旧勢力がこの地方に覇権を唱えようとしのぎを削っていた。この中で信長の力を頼んで上洛したのは浦上宗景だけであった。元亀二年(1571)信長に伺候して備前、美作、及び播磨の一部を安堵するという朱印状を賜った。 天正二年(1574)四月から備前の各地で浦上と宇喜多が熾烈な戦闘を始めた。明禅寺合戦で有名になり、浦上家を凌ぐ勢力を蓄えてきた宇喜多に浦上が難癖をつけたことが一つの原因であった。 信長に追われ毛利輝元を頼って都落ちした足利義昭は備後鞆津の地から全国の豪族に対して檄を飛ばし、打倒信長を煽動していた。 信長からの密書を受け取った三村元家は重臣を集めて評議した。 小躍りせんばかりの口調で元親が長々と発言した。 「これは願ってもないことだ。三村一族は宇喜多直家とは戦場で敵としてしばしば戦ってきた。戦いにはまだ決着がついていない。それはそれとして、宇喜多直家はわれらにとっては父子二代の怨敵である。父家親は興禅寺で卑怯な手段で闇討ちされ、佐井田城の合戦では長兄荘元祐が戦死なされた。それなのに毛利殿は三村一族の感情を逆撫でするかのように、直家と同盟し怨念を忘れて一緒に奉公せよといわれる。はからずも、このたび織田信長殿から同盟を結び前の将軍義昭と毛利氏とに対抗しようという申し入れがあった。信長殿は最近盛名を得て行く所不可はないほどの実力の持ち主じゃ。組む相手としては不足がない。毛利氏と同盟を結んだ宇喜多氏を成敗するためにはこの方法しかない。願わくば織田殿の援助を得て浦上殿と力を合わせ、宇喜多を攻撃し年来の鬱憤を晴らしたい」 「お尋ねしたい。長年誼を通じてきた毛利殿に背くということか」 と三村親頼が尋ねた。 孫兵衛親頼は元親の叔父にあたり、その母は奈々の方である。 「致し方ない。仇敵直家を討ち取るためには止むを得ぬ」 と元親。 「毛利の大軍に勝てる自信がおありかな」と 今度は親成が尋ねた。成羽の鶴首城の城主で三村家の重鎮である。元親とは従兄弟にあたる。 「織田殿だけでなく、豊後の大友氏、阿波の三好氏も応援してくれる手筈になっているから心配無用じゃ」 「しかし、織田信長という人は狂気の人だという噂が多い。恐ろしい陰謀を企む人だともいうので彼と組むのは危険が多い。毛利氏にあくまで忠誠を誓うべきだ。ましてや大友三好の援軍は遠すぎる」 と親頼は強硬に反対する。親頼はバランス感覚に優れた智将で家親なきあとの三村一族を纏めてきた柱石ともいえる人物である。積極的に表面へ出ようとはせず、常に若い元親を押し立ててよくこれを補佐し、三村一族の団結を影で支えている縁の下の力持ち的な存在でありその燻し銀のような人柄は家中の絶大な信頼を一身に集めていた。滅多に元親に異を唱えたことのない親頼が今日は顔色を変えてあくまで強硬であった。しかしながら、怨敵直家憎し、打倒直家の執念で凝り固まっている元親には冷静に客観情勢を分析して年配者の助言を謙虚に聞いてみるだけの度量が失われていた。舎弟の宮内小輔元範、上田孫治郎実親らも元親に同調して孫兵衛親頼に感情的な反論をした。 「当家の運を開き、年来の本懐を遂げる好機が到来したと喜んでいるのに、同じ一族の身でありながら、怖じ気ついてしり込みするのは卑怯じゃろう。孫兵衛殿も耄碌したか」と孫兵衛を悪しざまに罵った。 「父の恨みを晴らすのに何故人の力を借りなければならんのじゃ。およそ武士の道は忠孝と仁義が基本じゃなかろうか。たとえ主君が主君らしからぬとも家臣は家臣らしく仕えるのが武士というものじゃ。信長ははじめ、将軍に頼まれ、その御威光を後ろ楯にして五幾内を討ち従えた。しかし後には逆心を起こし遂に将軍を都から追い出し我儘に振る舞っている。これは人倫にもとる所業じゃなかろうか。このような信長を大将と仰いで何の益があろうというのじゃ」 と孫兵衛はたじろぐこともなく、醇醇と説いた。
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