2005年09月09日(金) |
三村一族と備中兵乱44 |
道理を説かれて言葉に詰まった元親は強権を発動した。 「三村家の家長はこのわしじゃ。家長の決断に逆らうのは謀叛と同然じゃ。成敗してくれる。それへなおれ」と激しい剣幕で刀に手をかけた。 「もはやこれまで。後悔なさるなよ。御免」 と一礼して孫兵衛親頼と嫡子孫太郎親成は親宣とともに退座した。 列席した重臣と諸侍は何とかして親頼と親成を席に連れ戻し、一家の和睦を図らなければないと意見したが元親兄弟は頑として聞き入れなかった。心ある人は 「和睦して欲しい。和睦できないなら親頼と親成父子は討ち捨てるべきだ。元親は親頼父子のこれまでの忠誠心に甘えてたかをくくっている。親頼が本気だということに気がついていない。大将としての器が小さいな」 と内心思ったが口にだすものはいなかった。 元親の打倒仇敵直家の執念は胸の内でますます燃え盛り、反対する親頼、親成、親宣を殺してでも信長との盟約を実現して直家を倒そうと決意して討っ手を鶴首城へ差し向けたのである。元親が討っ手を出したという情報をキャッチした親頼は 「これは思いもしなかったことになった。我が身の浮沈はここで決まる。将軍に注進して身の難をのがれよう」 と天正2年(1574)11月の夜、鶴首城を脱出して鞆の津へ馳せつけ、将軍足利義昭へ元親が謀叛を起こしたことを注進した。 これを聞いた義昭公は驚いて、 「私が都へ帰還しようと謀をめぐらして準備 をしている時、足元に敵がいるとは思いもかけなかった。これはどういうことだ」 と早速三原の小早川隆景へ使者を走らせた。 小早川隆景は使者から知らせを聞くと直ちに毛利輝元と吉川元春へ使者を立てると同時に 「将軍が御帰洛の計画を練っている時に、将軍家を侮り、毛利家を軽んじ敵に加担する無道者は直ちに誅罰せねばならぬ」 という将軍の御内書に自分の廻文を添え、山陰、山陽四国、九州までも早馬を走らせた。 鞆の津の将軍の許へ馳せ参ずるよう陣触れをしたのである。 同年11月8日には小早川隆景、口羽・福原・宍戸・熊谷の歴々が馳せ参んじ翌日には輝元も出陣した。まもなく笠岡の浦に到着した。追々諸卒も加わりその軍勢は八万余騎に達したという。 攻撃は毛利軍が本陣を置いた備中小田の北方にある国吉城から始められた。 作州月田山城には元親の妹婿の楢崎弾正忠元兼が在城していた。元兼は元親謀叛の知らせを聞き、急に心を翻して、元親の縁者であると疑われないうちにと宇喜多直家の軍勢を城内に引き入れ、松山城の元親に加担していないことを示した。 荘勝資がすぐ山王へ兵を出し佐井田城を攻めると叶わないと思ったのか三村兵部之丞をはじめ城内の者は松山城へ逃げ込んだ。 小早川隆景を先鋒とする毛利軍の備中三村氏攻撃は電撃的に行われた。そのため天神山城の浦上宗景も宇喜多直家も毛利軍による備中三村諸城攻撃には殆ど加担出来なかった。 直家が毛利軍へ協力出来たのは備中動乱最後の常山攻撃だけであった。
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