2005年09月10日(土) |
三村一族と備中兵乱45 |
天正三年(1575)4月7日から備中松山城の攻撃は開始された。この城は天下に知られた名城であったから、急に落とそうと思っても徒に人力を費やし、矢数を失うだけであった。ただ兵糧の道を断つことは効果のある攻め方だったので、小早川隆景は諸方の麦田を薙ぎ捨てにしようと考えた。 四月七日松山城のうしとらの方向にあたる河面(高梁市河面町)寺山という古寺の跡に陣を移して古瀬(高梁市巨瀬町)近郷の麦を薙ぎ捨てた。 松山城からは麦薙ぎを防ごうと兵を出したが隆景は少しも応対せずに、陣を白地(高梁市落合町福地)へ再び移して麦薙ぎを続け、28日成羽へ討ち入った。このため、近郷の百姓達は迷惑して、毛利方へ心を通じて城中への夜討ちなどの手引きをする者が多かった。だが城中の兵に捕らえられて獄門にかけられる者も多く、その数は落城までに318にもなった。 隆景は諸氏に命じて陣が長引くように仕向け、何処へも出向かず櫓などの増設や修理だけをさせた。これを見て松山城の男女は退屈を覚え、下端の者達は月夜に抜け穴をくぐって城外へ出る者も多かった。 重代恩顧の者達は 「城内には兵糧や塩は沢山あり一、二年の籠城には差し支えない。このうえは織田信長に味方して後詰めの勢力をお願いする」 として少しも怯む様子はなかった。 こうして日が経つうちに何時の世にもあるように裏切り行為をするものが出てきた。竹井宗左衛門直定、河原六郎左衛門という浪人は元親から数えきれないほどの厚恩を受けていながら、隆景の術策に踊らされて、一時の利欲に惑わされて信義にもとることをしてしまった。両人は石川久式が守っている天神丸をとろうと思い、久式に会って 「我等について、世間では逆心の噂がたっているが迷惑なことである。このことについて小松山へ行って元親殿にお目にかかり申し開きをしたいと思います」 と言った。久式もその志を感心して5月20日、留守中の諸門の警備を厳重に命令して、宝福寺の雄西堂とともに小松山へ同道した。 そこで両人の手の者は、予て計画の通り、野菜などを台に乗せて、天神丸の法印様に献上すると偽って開門を願った。門の守備兵も顔見知りの人なので怪しむことなく門を開いた。そこで大槻源内、小林又三郎はすぐ門の中へ入り、奥の座敷へ急行しそこにいた石川久式の妻子を捕らえた。続いて土居、工藤、田中、蜂谷、肥田、土師、神原など数百人が押し寄せてあちこちに火をかけた。このようなことがきっかけとなって、松山城は落城した。 三村元親の自刃をもって松山城攻撃が終了すると隆景は将兵を率いて備前常山城へ向かった。 松山城から落ちのびて父家親の墓がある頼久寺へ辿りついた元親は今回謀叛を起こした顛末を述べた輝元宛の書面を認めた後、辞世の句数句を残した。介錯は粟屋与三左衛門尉元方に依頼して検視の武士達が感嘆する見事な振る舞いで切腹した。 ・年来の馴染み細川兵部小輔宛に 一度は都の月と思ひしに 我待つ夏の雲にかくるる ・都に住む一族の武田法師宛に 言の葉のつてのみ聞て徒に この世の夢よあはて覚めぬる ・歌道の師大庭加賀殿宛に 残し置く言の葉草の影までも あはれをかけて君ぞ問うべき ・老母宛に 人という名をかる程や末の露 消えてそ帰る本の雫に
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