2005年09月11日(日) |
三村一族と備中兵乱46 |
備中動乱の最後の戦いとなった備前常山城への攻撃は6月4日から始まった。それまでは隆景の分遣隊と宇喜多直家軍が包囲していたのである。攻撃の主力となったのは富川平右衛門秀安で毛利軍の案内役も買っていた。 備前常山城の城主は自刃した松山城主三村元親の妹婿上野隆徳あった。松山城が陥落して孤立無縁となった常山城の唯一の頼みは阿波三好氏からの来援であったが、毛利軍が大挙来襲すると姿を現さなかった。たまりかねた家臣が 「いっそ海を渡って四国へ渡り、三好の応援を得て、城奪回の機を窺うのが賢明かと思う」 と家臣の一人が進言したが隆徳は 「お主達の言うことはもっともであるが、毛利に弓引くように強く勧めたのはこの隆徳じゃ。その張本人が女々しく生き永らえることができようか。命の惜しい者は逃げてくれて結構じゃ。咎めはせぬ」 と城を枕に討ち死にする覚悟を披瀝した。 これを聞いて思い思いに駆け落ちする郎党達もいた。小舟を浮かべて逃げだした者もいた。彼らは逃げる途中で敵に追いかけられ殆どのものが討ち取られてしまった。 城の周囲を蟻の出る隙間もないほど包囲されて逃げ場を失った城兵は全員討ち死にを覚悟した。 六月六日の暮れに小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝が城の下に旗を掲げ先陣の兵数千人が二の丸へ攻め入り太刀を閃かし、靱を鳴らして鬨の声を上げた。 「助かろうと思う者程鬨の声に驚くものだ。明日の巳の刻(午前八時)には大矢倉で一類みな腹を切り名を後世に残したい」 隆徳は少しも騒がず静まりかえっていた。 翌七日の明けかた、城内から酒宴の声が流れた。多くは女性の声で互いに今生の名残の杯を交わしていた。 七日辰の刻(午前八時)に敵軍へ向かって 「一類自決する」 と告げると一類の人々が我先にと集まってきた。 隆徳の継母は57才であったが先ず一番に自害した。 自害するとき彼女は 「この世にあってこのような憂き目を見るのも前世の業が深かったためであろう。隆徳が腹を切るのをみると目を廻し気絶し、見苦しい姿を見せるのも口惜しい。暫時後に残るよりも先に自決したい」 と言って縁の柱に刀の柄を縛りつけそのまま走り掛かって胸を貫いたところに、隆徳が走り寄って 「五逆の罪は恐ろしいが止むを得ない」 と言って首を討ち落とした。 嫡子源五郎隆透は15才であった。父隆徳の介錯をしかたいと思ったが、少年でもあり未練が残ると思ったのか 「逆ではありますが先に腹を切りたい」 と言うと 「愚息ながら神妙な奴だ」 と扇を開きあおぎながら、つくづくと顔を見て 「生かしておきたいが、後生の障りともなるであろう」 と暫く涙を流し、袖を濡らしていた。 隆透は俯いて涙を押し留め肌を脱いで、腹十文字に掻き切りうつ伏せになるところを 隆徳が首を打ち落とした。 隆徳は8才になる隆透の弟を傍らに抱え心臓を二突きして殺した。 隆徳の妹に16才になる姫がいた。安芸の鼻高山の親戚の許へ落ちていくように勧めたが 「思いも寄らぬことです」 と言って、老母の縛りつけていた刀で乳のあたりを貫き自害した。 隆徳の妻鶴姫は三村元親の妹で、日頃から男に勝る勇気と力を持っていた。 「私は女の身であるが、武士の妻や子が敵の一騎も討たずむざむざ自害するのは口惜しい。女であっても、ひと戦しないわけにはいかない」 と鎧をつけ、上帯を締め、太刀を佩き、長い黒髪を解いてさっと乱し、三枚兜の緒を締め紅の薄衣を取って着て、裾を引き揚げて腰で結び、白柄の薙刀を小脇にに挟んで広庭へ躍りでた。 これを見た春日の局やその他の青女房、端下の者に至るまで三十余人は 「思い留まって静かに自害して下さい」 と鎧の袖を掴んだが、 「貴女達は女性の身だから敵も強いては殺しはすまい。いずれの地かへ落ち延びるか、もし自害するならよく念仏を唱えて後生を助けて貰われるがよい」 と袖を振り切って出て行った。 春日の局らは 「さては自分達を捨ててしまわれるのか。どうせ散る花ならば、同じ嵐に誘われて、死出の山、三途の川までお供しましょう」 と髪を掻き乱し、鉢巻きを締め、ここかしこに立てかけてあった長柄の槍を携えて三十余人が駆けだした。 これを見た長年恩顧をこうむった家僕達も一緒に死のうと、83騎が揃って駆け出した。 寄せ手はこれを見て 「敵は妻子を先に立てて降伏してきたな」 と思っていたところ、女性軍は、喚声をあげながら、小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝の七百余騎の真ん中目指して突っ込んだ。 女を含むとはいえ、決死の勇士が死を恐れず突きたてたので、寄せ手の兵は足並みを乱し、傷を受け死ぬ者百騎に及んだ。慌てふためくのを見て隆徳の妻は腰から銀の采配を抜き、真先に進んで 「討ち取れ、者共」 と大勢の中へ割って入った。多勢に無勢、構えを建て直した敵に追い詰めら討ち取られて味方の兵はいなくなった。 隆徳の妻は浦野兵部丞宗勝の馬の前に立ち止まって、大音声を張り上げた。 「どうした。宗勝、西国屈指の勇士と聞いている。私は女の身ではあるが、一勝負致したい。いざ」 とわめき叫んで、薙刀を水車のように廻して攻め寄せた。 「いやいやそなたは鬼ではなく、女である。武士が相手にできる人ではない」 と身を引くと、傍らの兵五十騎が攻めかかってきたので薙刀で七騎を薙伏せた。 自分も薄手を負ったがまた大音声を張り上げた。 「女の首をとろうとなさるな。方々」 と呼ばわり、腰から三尺七寸の太刀を抜き、 「これは、わが家相伝の、国平作の名刀である。この太刀は父家親が相伝されて、特に秘蔵していたが、故あって、私が戴いた太刀である。父親だと思って肌身離さず持っていた。三村一族が滅亡する今となっては、相伝する者もない。わらわの死後には宗勝殿に進呈する。後生を弔って賜え」と言い捨て城中へ馳せ入った。 こうして西に向かって手を合わせ、 「夢の世に、幻の身の影留まりて、露に宿借る稲妻のはや立ち帰る元の道。南無阿弥陀仏」 と念仏を唱え、太刀を口に含んで臥し、自害した。 隆徳も西に向かい 「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れ元親、久式、元範、実親と同じ蓮台に迎え賜え」と念仏を唱えながら腹を掻き切った。 備中兵乱の悲話の中でも最も涙をそそる出来事である。
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