2005年09月12日(月) |
三村一族と備中兵乱47(完結編) |
十四、甫一検校 検校にまでなった甫一という座頭の琵琶法師と中村吉右衛門という乱舞の芸者は、元親が松山城に籠城していると聞いて遠国から尋ねてきて難儀しながら松山城へ忍び込み日頃の恩に感謝した後、馬酔木門より帰ろうとしたところを悪党どもに見つかり殺されてしまった。と備中兵乱記には特記している。 十五、勝法師丸 三村元親の嫡男勝法師丸と石川久式の嫡男を備前国の住人伊賀左衛門久隆が生け捕りにして本陣に移した。久式の子は備中国の宝福寺へ送られた。勝法師丸は生年八才であったが、容貌はなはだ優れ、書は他に並ぶものがないほど上手であった。四季折々に詩歌の会を催して心を慰め、栄華の日々を送っていたが今は敵方の陣屋に捕らわれの身となっていた。 昔、御醍醐天皇の八才の皇子が天皇と別れるのを悲しみ、 「つくつくと思ひ暮らして入相の鐘を聞くにも君ぞ恋しき」と詠まれた歌を思い出し、過ぎた昔の哀れな話を今こそ身にしみて感じていた。 久隆が本陣に送った時、惣金の扇に古歌を書いて勝法師丸へ与えたところ、扇を開いて「夢の世に幻の身の生まれ来て露に宿かる霄の稲妻」 とあるのを見て 「さては、本陣に行ったなら殺されるに違いない。今脇差しを持っていれば自害するのに」 と後悔するのを見て、人々は感涙を催し 「助けておいて出家でもさせるか」 と相談していた。 その時、また勝法師丸が、自分の見張りをしている侍に 「私が久隆に捕らえられて送られて来た時、途中で元の家人共に出会った。彼らは馬に乗ったままであり、君臣の礼儀を失っていると私は彼らに申した。背かれるほどの主人ではあるが、これほどの恥辱はない。おのおの方も前後におられるのに馬に乗ったままで行き過ぎるのは無礼であろう。どう思うか」 と話すのを聞いた人は皆舌を巻いて驚いた。 そこで、隆景にこのことを告げたところ、 隆景はそれを聞いて 「それほどの口才があるはずがない」 と思い、別人に尋ねたところ、本当のことであると語った。 「さては、助けておくと弓矢の種になる。事が難しくなるぞ」 と言って殺してしまった。 一家滅亡の時であり、実に哀れな話であった。 高梁市の頼久寺には備中の虎三村家親、備中兵乱の主人公三村元親の墓とともに勝法師丸の墓が並んで建っており、三村家三代が今は静かに眠っている。 完
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