前潟都窪の日記

2005年09月13日(火) 無縁仏の来歴1

      無縁仏の来歴                                                        1.                                                                   播磨平野の風物詩は塩田である。イオン交換膜を利用した製塩工場で塩が造られるようになってからは、あの広大な塩田にも所々住宅や工場が立ち並び始めていた。それでも未だ姫路近郊にある極東硝子高砂工場のだだ広い敷地の隣には、川を隔てて流下式塩田が涯てし無く拡がり、長閑な景色を作りだしていた。

 塩田ののどかさとは対照的に、ここ極東硝子高砂工場の構内はショベルカーが蟷螂のようにショベルを持ち上げ、ダンプカーが慌ただしく出入りしている。整地の終わった一角には、クレーン車が鉄骨や機器を吊り上げており、ヘルメットをかぶった作業員達がせわしなく立ち働いている。クレーン車の隣には建て方の終わったスレート葺きの硝子工場の建物が威容を誇っている。

 新鋭の硝子工場の建設現場から1・ほど手前の一角には古ぼけた耐火煉瓦工場がほこりにまみれて新工場を羨むかのようにみすぼらしく立ち並んでいる。

「今日は応募者は一人もありませんでした。明日は10時から梅田の阪神デパートの選考場へ行ってきます。あまりあてにしないで下さい」と部下の白石がハンカチで額の汗をぬぐいながら報告した。夏だというのに、煉瓦工場の粉塵が舞い込むので窓を開けることが出来ない。扇風機は徒に生暖かい澱んだ空気を掻き混ぜているだけである。

 門川 久の執務している事務所は、事務所というにはあまりにもみじめな建物で木造の倉庫を改造した、台風が来る度に屋根が飛ばされやしないかと心配になるほどの代物である。

「そうか、今月はまだ10人しか採用出来なかったわけだね。九州の方は確率がいいようだね。矢吹君からは、昨日博多で3人応募者があったという連絡があったよ。こうなったら手と足さえ付いていればよしとしなければならないね」
門川 久は自嘲するように言った。

 門川 久は大学を卒業すると極東硝子へ入社した。最初の任地は横浜の硝子工場であった。労務課に配属になり、一年半ほど労務管理の基本的な業務を実地に体験した。その後、定期人事異動で本社に転勤となり二年間人事企画の仕事に従事した。彼が本社で人事企画の仕事に従事している頃、日本は高度成長の波に乗っており、彼の会社も設備投資を積極的に行い、耐火煉瓦の単一工場であった高砂工場の構内の空閑地にカラーテレビのブラウン管用硝子バルブの製造工場を建設することになった。

 カラーテレビは造れば造る程売れ、ブラウン管用バルブの増産を電気メーカーから求められ、シェアーの拡大を図って、次々に新鋭の設備を作る競争をしているかの如き観を呈していた。工場が稼働する一年前に門川 久はこの地へ転勤を命ぜられ、着任と同時に新しい工場の充員のために、西へ東へと走り回った。とにかく一人でも多くの若い従業員を採用することが使命であった。人事管理の高邁な理論も理想もそこでは通用しなかった。

 人、人、人、集めることこそが会社における正義であった。しかも、極東硝子の作業は三交代勤務であり、高熱環境下作業である。作業環境はすこぶる悪い。今日3人採用したと思ったら次の日には5人辞めていた。いくら採用しても人数は増えなかった。若い労働者は少しでも賃金の高い会社へ移動していく。就職支度金欲しさに応募してくるずるい者もいた。

 組合は新工場の稼働を目前に控えて、人数が増えるどころか逆に少なくなる現状に対して、定員制を盾にして激しく会社の無策振りを攻撃してきた。

「現有設備の定員さえ、満足に確保できていないのに、新設工場の人手は確保出来るのか」
「定着対策をもっと充実させなければ、いくら人を採っても、辞めていく人間が多くて会社の充員活動は徒労に終わるのではないか」などと言うのである。

 一方、新工場臨時建設部の担当者は、半年後の稼働を目前に控えて、新規労働者の訓練をしたいから早く人を入れてくれと催促してきている。

 久は労務課の充員担当者として針の筵に座らされているような気持ちでこれらの言葉を毎日聞いていた。そのうえ、基幹要員を九州の工場から受け入れるための集団転勤の仕事も忙しさに拍車をかけた。受け入れ施設を整えるために鉄筋アパートも5棟建設中であり、建設業者との打ち合わせが毎日行われる。

 地域の住民からは、日照権についての苦情もくる。やっと地域住民との応接を終わって、帰社すると会社を辞めたいから話を聞いてくれと言って、若い従業員が久の帰りを待っている。労務課の若手の係員はそれぞれに、九州,四国、山陰へと人の募集に散っているから、いきおい、久が一人一人と応対して、ダメと判りながらも説得しなければならない。欠員の補充さえ十分出来ない状況だから、無理な人員編成をして現場で怪我人が出る。怪我人が出れば、監督署へ届けたり家族との応対で余計な仕事が増えてくる。定着対策の一環として行っている若年層従業員のクラブ活動、懇親会という名目の宴会にも付き合わなければならないので、体が幾つあっても足りないと思えるのである。労務課員は課長、係長から係員の女子に至るまで過労気味であった。製造サイドは製造サイドで、新工場の建設と既存設備のフル操業のため忙しく立ち働いており,工場全体が一種の狂乱状態に陥っていた。

 このような忙しい毎日の生活が続き、毎晩遅く疲れて独身寮に帰ってくると、久は自分は何のために働いているのかと自問してみるのであった。

 新しい工場が稼働を開始すれば、今ほど雑用は多くはないであろうが、人の採用の仕事はもっと、増えてくるだろう。一体あと半年の間に新工場を動かせるだけの人員が確保できるであろうか。常に久の頭から離れることのない悩みであった。

 新工場の編成人員は、500人でそのうち基幹要員として、九州から150人の集団転勤を受け入れることになっている。残りの350人のうち、150人は来年3月に高校を卒業してくる新入社員である。戦力として使えるまでには入社後、少なくとも半年はかかる。不足する200人は中途採用で充足しなければならないが、まだ、50人ほどしか採用できていない。あと150人集めることは不可能に近い。脱落する者を考えれば、300人は採用しなければ安心できない。6ケ月間に300人採用するとなれば、毎月50人宛である。ところが現実に、毎日採用面接を三箇所で行っているが、応募者の数自体が一日平均二人で、一ヵ月に採用できた人間は20人ほどである。とても無理な相談のように思われる。

 久は何回か現在の労働情勢、雇用情勢についてレポートを書き、現在の生産計画、新工場の建設計画自体に充員の面で無理があるから計画の変更乃至は、世間相場を無視した大胆な労働条件の改訂、少なくとも賃金水準の全面的な改訂が必要である旨の報告を行った。しかし、新工場の計画通りの稼働は至上命令であり、労働条件の改訂は全社的な問題に波及するから出来ないというつれない回答を貰っただけであった。そして与えられた条件のもとで与えられた目的を達成するのは、社員の務めであり、腕の見せどころであるという冷たい補足がつけられていた。

 久は、その年の自己申告用紙に再び現在の雇用情勢下では、現在の条件のままで、予定されている新設工場の予定通りの操業開始は雇用面で困難であるから、既設の工場から、集団転勤者の人数を増やすか、或いは操業開始時期を半年遅らせるか検討して欲しい旨を書いて提出した。

 自己申告書は課長を経て本社の人事部長にに提出される建前となっているが、久の自己申告を読んだ課長は久を呼んで言った。
「門川君、君の気持ちはよく判るし、私自身、君の意見に賛成したい。だがね、サラリーマンというのは我慢が大切なのだ。君の自己申告を本社へそのまま提出したら、君の無能力振りを公表する結果となるよ。君が無能だとは僕は思っていないが、結果としてそういう評価になってしまうのだよ。考え直してみてはどうだ」

「課長、お言葉ですが今のままの状態が続いたら、この工場の管理部門の人は皆潰れてしまいますよ。まるで気違い沙汰じゃぁないですか。明けても暮れても、人、人、人。人を採用するためには、学校の先生に女まであてがってまるで女郎屋のやりて婆さんじゃありませんか。そのうえ、組合のダラ幹共と取引をして、攻撃の矛先を変えさせようとしたり、全く吐き気のする状況ですよ。そう思いませんか。こんなことになるのも、要は現在の工場新設計画に無理があるんですよ」久は堤防が切れたように喋りだした。

「君は若いな。もっとよく考えろよ。君は独身で家族がいないから無鉄砲なことが言えるけれども、この世の中は喰うか喰われるかなんだ。我慢してとにかく頑張るしかないんだよ。結果として人が集まらなくて、工場が動かなかったとしても、稟議経営のもとでは責任は分散されてしまうんだ。君がよしんば正義漢ぶって正論を唱えると、御政道を批判したことになって君の立場もなくなるし、第一、上司である私の立場が困るじゃぁないか。サラリーマンとはそのような宿命を持っているんだよ」

「課長、私はもう疲れたんですよ。皆も疲れているでしょう。言うだけのことを言っておかないとあいつは駄目な奴だったと言われるだけで終わりになってしまうでしょう」と久は反駁した。

「それは、言っちゃぁ悪いが、君の自惚れというものだよ。ごまめの歯ぎしりとしか聞いては貰えないよ。ここは忍の一字さ」と悟りきった顔で課長は言った。

「でも課長、今の工場の状態はまるで、気違い沙汰じゃあないですか。労務課員は人集めで皆疲れている。製造は増産に次ぐ増産の指令に追いかけ廻されている。臨時建設部は工期の短縮で疲れている。誰かが言わなければ工場全体がのびちゃいますよ。製造の作業員は定員割れのところへ増産を割り当てられ残業の連続ですよ。今に不満が爆発して大変なことになりますよ」
 久はいい加減うんざりした顔になってきた課長になおも食い下がった。
「とにかく、工場新設計画の延期は絶対に出来ないことなんだから、黙っていたまえ。疲れたのなら一週間休暇をとりなさい。人間忙しい時ほど休養が必要なのかもしれないからね。もう一度だけ言っておくが、君の自己申告書は書き直したほうがいいよ」
 課長はそう言い残すと席を立った。

 久は釈然としないけれども自己申告書を書き直して提出することにした。              
 久は自己申告書を課長に指摘された通り書き直しながら、何というつまらない制度を会社は作ったのだろうかと思った。そもそも、久が本社で労務管理の勉強をしていたとき、得た知識から言えば自己申告は自分が会社に対して言いたいこと、聞いて貰いたいことを素直に書くところにその本来の趣旨があった筈だ。久は本来の制度の趣旨に則って言いたいことを書いたのだ。ところが課長は書き直しを命じた。建前と本音の乖離。日本的発想の形式がここにあった。本音は決して正面切って打ち明けてはならないのである。正論として吐くのはあくまで、建前の議論でなくてはならない。本音は胸の奥底に秘かにしまっておいて心ある人に察してもらうしかないのである。何という非合理な表現の形式であろうか。本音を察して貰える人があればよいがもし上司に鈍感な人がいて本音を察して貰えず、建前の議論をま正直に受け取られたとしたら何という滑稽な悲劇がそこに起こることであろうか。

 久は自己申告用紙に次のように書いて提出することにした。
『現在当工場は建設の槌音も高く、新鋭工場の早期稼働に向かって、臨時建設部、製造部、労務部ががっちりスクラムを組んで多忙を極めている。現在の雇用情勢下にあっては、短期間に500人の編成人員を充員することは至難のことであるが、当工場の使命の重大さを考えるとき、泣き言を言っている場合ではない。何としても工場が稼働を開始するまでには、目標の500人を揃えるべく、求人活動を精力的に展開している。当工場における労務部の使命は充員を一日も早く完了することであると認識している。』

 久は白々しい気持ちで、以上のように書き終えると我ながら抽象的で中身のない文章だなと思うのである。久は書きおえた自己申告書を封筒に入れて課長に提出すると、一週間ほど休暇を戴きたい旨申し出て休養することにした。

 人、人、人に明け暮れて過労気味だったので、一週間の自由な時間は限りなく貴重な時間だと思った。

 仕事を離れてホットした時、頭の中へヒョコッと浮かんだ想念がある。この想念は夏の空に突然わきでた入道雲のようにむらむらと大きく勢いを得て久の頭の中一杯に拡がった。煩わしい人間関係から抜け出して、責任も何ももない気儘な生活をしてみたいという願望にも似た想念である。

 これから一週間という自由な時間を気儘に過ごしてみようと思い立った。 久は独身寮の管理人に一週間程休暇を貰ったので実家へ帰ってくると言い残して鞄一つを持って寮を後にした。


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