前潟都窪の日記

2005年09月15日(木) 無縁仏の来歴3

    3.                                                               今日も朝からしとしと雨が降り、空はどんよりと曇っている。門川佳子は硯で墨を擦りながら床の間に飾ってある条幅に目を投じた。
 杜甫の詩『春望』が草書で流れるような線によって書かれている。落款には門川孤舟と記されている。この軸は孤舟と号した兄が東大在学中、ある新聞社の書道展で特選をとった記念の軸である。
 兄、久が失踪してから何年になるのだろうか。久の失踪が判ったのは、東大を卒業して昭和40年に極東硝子へ就職し、3年ほど経ったときの、丁度今日のようにしとしと雨の降っている日だったと思う。兄の会社の人事課から電話がかかってきたのである。
「もしもし、こちら極東硝子の人事課でございます。門川 久さんのお宅でしょうか」
「はい。門川でございます。いつも兄がお世話になっております」
「久君はおられますか」
「いえ、兄は会社へ出勤している筈ですが」
「えっ。久君は休暇をとってお宅へ帰っておられる筈でしたが・・・どちらかへおでかけでしょうか」
「何ですって。兄は最近こちらへは帰ってきておりませんが。何か」
「おかしいなあ。仕事に疲れたから両親の許へ7日ほど休養に帰ってくると言われて、10日ほど前に帰郷した筈ですが・・・7日過ぎてもなんの連絡もないのでどうしているかと思って電話したのですが、そうですか。そちらへは顔を見せませんでしたか」
 
それから大騒ぎとなった。兄は正月に帰ってきて以来,今日まで帰郷していなかったのだ。
 佳子も両親も元気に会社勤めをしていると思っていたのに、突然、会社からおかしな電話がかかってきたのである。
 父が急いで兄の任地へ飛び、極東硝子を訪問した。上司や同僚に会っていろいろ聞いてみたが、仕事に疲れたので暫く両親のもとで静養してくると言って、7日間の休暇届けを出して帰郷したということしか判らなかった。久の住んでいる高砂市の独身寮に行って荷物を調べても衣服類はきちんと選択して押し入れの中に仕舞ってあり、書類も本棚に綺麗に並べられている。               
 部屋の中では書き置きらしきものも発見されなかった。同室の同僚に尋ねてみてもスーツケース一つをぶら下げて実家へ7日ほど帰ってくるよと言い残して出掛けたのでてっきり帰郷しているものと思っていたということである。
 直接の上司である労務係長の話では、最近急激に工場が膨脹し、充員、定着対策、複利厚生施設の建設、労働組合対策、集団転勤の受け入れ等と難しい問題を抱え、毎日遅くまで仕事をし、疲れていたのは事実である。しかしそのことが、原因で失踪してしまうということはあり得ないということであった。
 門川家でも心当たりへは全て連絡し、会社でも久が立ち寄りそうな所へは残らず連絡をとったが、消息は不明であった。
 警察へ捜索願を出したが、久の行方は杳として判らなかった。失踪の動機も判らず、久からは会社へも実家へも何の音沙汰もないまま、いつしか3年が過ぎていた。佳子は兄が失踪したときはまだ、短大へ入学したばかりであった。優しかった兄が動機の判らないまま行方不明になったことにショックを受けた。
 父や母の嘆きもまた大きかった。あの事件以来、父や母はひどく老い込んだように見える。母は毎朝、背広姿の兄の写真に陰膳を供えることを欠かさない。めっきり白髪の増した母が口の中でぶつぶつお経のようなものを唱えながら、陰膳を供えている姿は痛々しくて、佳子は見るに忍びない思いをしている。
 佳子の実家は父、作造が包丁一本で築き上げた寿司屋である。働き者の父は九州の片田舎から単身大阪へでてきてあちこちの料理屋へ勤め、腕を磨いた。難波で修業しているとき、大きな寿司屋で女中勤めをしていた母を見初めて世帯を持ったと聞いている。生来働き者の父と母はせっせき働いて小金を蓄え、繁華街で店を持つことが人生の目標だったそうである。
 出征中は父は内地勤務で通信兵として葉山の通信学校へ勤務したらしい。母は兄と生まれて間のない佳子を九州の父の実家へ連れて行き漁師の手伝いをしながら二人の兄妹を育てたということである。
 戦後復員すると、父は大阪と九州を担ぎ屋として往復し、水団やら蒸かし芋を売って元手を作り、大阪の現在の土地を購入しバラック建ての一膳飯屋からスタートして、今の店に作り上げたのである。今では板前10人を置く寿司屋を本業としながら、レストラン、喫茶店、ビジネスホテルの経営やらで相当の所得を得ている。
 佳子は父や母には言えないが、ひょっとすると兄の失踪の原因は両親の家業にあったのではないだろうかと内心秘かに思っている。そう思わせる出来事が過去に幾つかあったのである。
 両親に似て頭の良かった久は、中学、高校とも首席で通し語学には特に才能のあるところを示した。父が家業を継がせようとするのを嫌って、東大へ進学し家庭教師のアルバイトをしながら大学を卒業したのである。大学に進学するについては、寿司屋の伜に学問は不要だとする父と、寿司屋のような水商売は嫌いだという兄が口論し、担任の先生のとりなしに折れた父が、自分の力で進学し、就学するなら認めようという事件があった。
 また語学に堪能で政治に興味を持っていた兄が大学へ進学してからは、外交官になるのだと言って、一生懸命勉強していた一時期があった。ある晩コンパでひどく酔って帰り,
「うちが水商売では、毛並み第一の外交官にはなれないよ」とコップに水を持っていった佳子にポツリと寂しそうに言ったことがあった。
 最近では正月に帰省したとき、母が沢山用意した見合い写真を見せると写真を一瞥しただけで、
「寿司屋風情には良家の子女は寄りつかないよ」と言って母に写真をつき返した。これを傍らで聞いていた父が激昂し、
「その言いぐさは何だ。寿司屋風情とはなんだ。親の職業を愚弄するような言い方は許せん。寿司屋だって立派な生業だ。人様に迷惑をかけるわけじゃあなし。もう一度言ってみろ・・・これだから、なまじ端学問をした奴は始末に終えん」
「済みません。私の言い過ぎでした」
 流石に気が咎めたのか兄が素直に謝ったのでその場は納まったが、父と母は兄の言葉を非常に気にしているようであった。
 その晩、兄と二人だけになったとき、佳子に述懐した兄の言葉はいまだ鮮明に頭に焼き付けられている。
「佳子。親父やお袋が気を悪くするから内緒の話だが、良家の子女との縁談が会社で幾つかあったけれど、一つも実らなかったよ。見合いになるまでに話が立ち消えになってしまうのさ。よく調べてみると、どうも実家が水商売をやっているということが判ると先方で敬遠してしまうらしいのだ。佳子もよく知っているように、俺は実力主義,人物主義ということで、今まで通してきたが、こと縁談となるとそうもいかないところがあるもんなんだ。ケネディ家でも大統領を出すのに三代かかっているようなものさ。俺は今でも恋愛結婚よりも見合い結婚の方が合理的だという持論なんだけど、これは一般論にしか過ぎず、俺の場合には当てはまらないようだ」
 誇り高くて気が強く、自分の思ったことは大体押し通してきており、挫折ということを知らない兄の言葉としては弱気だなと思いながら聞いたのであった。
 しかし、見栄坊な所のあった兄にしてみれば案外、結婚問題に関連して実家の家業が、普通の人が考える以上に、大きな悩みであったのかもしれないと、強いて兄の失踪の動機づけを考えてみるのであった。
「佳子、何をしているの。下へ降りていらっしゃい。桑山さんが遊びに見えていますよ」
 階下から呼ぶ母の声に佳子は我にかえった。今度の展覧会に出品するため条幅を10枚ほど書いたところであった。
「はーい。只今」
 佳子が急いで片づけて階下へ降りて行くと、新聞記者の桑山が、応接室のソファーに腰を下ろして美味そうにお茶を飲んでいる。
「やぁ、ヨッちゃん。頑張っているそうだな」
 桑山はにこにこしながら右手を上げた。
「珍しいこともあるんですね。桑山さんが、明るいうちにいらっしゃるなんて」
「何を寝惚けているんだい。ヨッちゃんに素晴らしいプレゼントを持ってきてあげたんだよ」
「まあ、嬉しい。どこにあるの」
 佳子が桑山の身の回りを見渡してもそれらしいものはない。
「そんなにキョロキョロしても、ここにはないよ。さあ、出掛ける支度をはじめた。始めた」
「何処へ行くんですの」
「それは内緒。行ってみてのお楽しみ」
「まぁ。桑山さんたら、人をじらしておいて。教えて下さいな」
「ヨッちゃんが怒るの図か。悪くないな。ハッハッハッ・・」
「佳子、桑山さんがね、三王商事の岡元常務さんのお宅へ連れて行って下さるそうよ」         と母親が側から口をはさんだ。
「あの岡元克彦ですか。書の蒐集家の?」
「そうだよ。前々から一度自慢の書を見せて欲しいと頼んでおいたのだが、とても忙しい人でね。なかなか時間を割いて貰えなかったんだが、今朝急に電話があって、午後3時に見せてやると言うんだ」
「まあ、嬉しい。流石新聞記者は顔が効くのね」
「まあね」
「桑山さん何でもっと早く知らせて下さらなかったの。3時とすればあと2時間しかないわ。美容院へも行けないじゃぁないの。新聞記者のくせに気が効かないわね」
「おいおい、ヨッちゃん、変な言いがかりはよして呉れよ。夜討ち朝駆けが新聞記者の本性だよ。東に事件があればすっ飛び、西に騒動があれば馳せ参じる」
「判ったわよ。また始まった。時間がないので支度をしてくるわ」
 佳子は満面気色を帯びて浮き立つような足取りで二階へ駆け上がって行った。

 桑山由雄が東京本社から大阪支社へ転勤になったのは一年ほど前である。 桑山は寿司が好きなので、夜食には寿司屋へ立ち寄ることが多い。あちこちの寿司屋を食べ歩いて見て、何故か角寿司へ足繁く通うようになった。
 新聞記者という職業柄夜遅く食事をとりながら一杯飲むことが多い。桑山が角寿司へ通うようになったのは佳子のせいだと思っている。佳子が店にでることは滅多にないが、桑山が初めて角寿司に入った時、いつもは帳場に座っている佳子の母親が風邪で寝込んでいたため、佳子が臨時に帳場へ座っていたのである。その日桑山はうっかりして財布を忘れているのに気が付かず勘定の段になって慌てた。ポケットにあちこち手を突っ込んでいる桑山の姿を見てすかさず佳子が言った。
「お客さん勘定はこの次で結構ですよ」
「だって、君初めてこの店へ来たのだよ。そうだ。明日必ず届けるから、この時計を預かってくれないか」
「いえ、結構ですわ。お客さんは良い人ですから、明日きっとまたいらっしゃるわ」
 こんなやりとりがあって桑山は角寿司の常連になったのである。
「桑山さん、あの娘も年頃ですからどなたかいい人をお世話して下さいよ」 佳子が二階へ支度に行っている間、母親はお茶を勧めながら謎をかけた。「私でよかったら、いつでもどうぞ。でもヨッちゃんには新聞記者の女房は勤まらないでしょう。それに、この店だってあることだし。まあ心がけておきましょう」

 桑山は本気とも冗談ともとれるような言い方をした。門川久枝は夫の作造とも相談して、息子の失踪のことは店の者達にも禁句にしていた。桑山は佳子を角寿司の一人娘だと思っているような言い方をしている。久枝は桑山と佳子の間がかなり接近してきているので、いつ兄久の失踪のことを桑山に切り出すか悩んでいた。

「どうもお待たせしました。桑山さんたら、急なお話なんですもの。私あわてちゃったわ。もっと前もって知らせて下さればもっとお洒落ができましたのに」
 佳子が大急ぎで身繕いしたらしく、ハンドバッグの中を覗き込むようにしながら階段を降りてきた。
「白状すると、実は昨日大学時代の同窓会があってね。大蔵省へ勤めている友人が岡元克彦の娘と結婚していることが判ったのさ。それでよっちゃんのことを思い出して、親父に会わせろと頼んでみたわけさ。すると奴も気の早い男だから早速話をつけて今朝電話をかけてよこしたという次第なのだよ。ハッハッハッ」
「それでは新聞記者の顔ということではなかったのね」
「そういうことになるね。でも、日本の名筆コレクションが拝めるんだからいいじゃあないか」
「ありがとう。素敵なプレゼントだわ。早く行きましょうよ」
 佳子は桑山をせかせて出掛けて行った
 二人の後ろ姿を見送りながら久枝は、失踪した久が桑山に姿を変えて帰宅し妹を連れてでかけたのではないかという錯覚に陥るのであった。桑山と佳子との周囲には、そのような肉親の間にだけ漂う親しい暖かな雰囲気があった。     


新映像配信システム資料請求(無料)はこちら

1,000万円も夢ではないBIZ-ONE

毎日が給料日!毎日の振込が楽しみのDiscovery-net

小遣い稼ぎの虎の巻きBIZ-ONE


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加