前潟都窪の日記

2005年09月16日(金) 無縁仏の来歴4

    4.                                                               武庫川の川沿いの閑静な所に、緑に囲まれて豪華なマンションが建っている。このマンションの日当たりの良い二階に岡元克彦は住んでいた。

「結構なお住まいですね。今日は、素晴らしいコレクションを拝見出来ると楽しみにして参りました」
 名刺交換を終えると桑山は新聞記者らしいはきはきとした口調で切り出した。

「いや、これはどうも。最近東京から引っ越してきましてね。家財は東京へ残したままなので、何のおもてなしも出来ないと思いますが、ゆっくりしていって下さい。幸い書を集めるのが私の道楽でしてね。書だけは持ってきてありますから御覧にいれましょう。美代子、桑山さんにビールでも差し上げなさい」

 岡元克彦は最近専務に昇格して、関西支社を統括するため大阪へ転任となったのである。一人娘の美代子が大蔵省へ勤務する原 良彦へ嫁いで間もなく発令された人事であったが、女婿の原も同じくして大阪国税局へ転勤となったので、山王商事で岡元克彦のために用意したこのマンションへ新婚の娘夫婦が同居することになったのである。岡元克彦は要職にあるため、夜は帰りが遅く、原夫婦は新婚生活を邪魔されることもなく、優雅な生活を送っていた。岡元は実の娘と同居できるので、何かと便利でマンションの生活を喜んでいた。

「はじめまして、原の家内でございます。主人からかねがねお噂は聞いておりました。何のおかまいもできませんが、どうぞごゆっくり」美代子はビールを盆に乗せてくると桑山由雄と門川佳子に挨拶をした。

 岡元克彦は平沼騏一郎、犬養木堂、勝海舟、佐久間象山等の軸を出してきては、一つずつ来歴をいかにも楽しそうに説明してくれる。

 佳子はいずれも名筆家ということで名前だけは聞いて知っていた大家の作品が次から次へと出てくるので、圧倒されてじっとそれらの作品に見入り、岡元の熱っぽい解説にじっと聞きいっていた。初めてみる作品ばかりであった。ふと気がつくと桑山も原夫妻も感心したような顔は装っているが、あまり興味はなさそうなので、もっとゆっくり見せて貰いたいと思ったが、他の人に悪いような気がしてきた。

「どうも貴重な作品を見せて戴きありがとうございました。良い目の保養ができました」とお礼を言った。
「若いのに書に興味を持たれるとは失礼だがなかなか殊勝な心掛けですね。自分でもお書きになるのですか」
と岡元克彦が聞いた。
「ええ、兄の影響で、真似事だけはしております」
「それはますます感心した。うちの美代子なんか、私がいくら勧めても、万年筆とタイプライターの時代に古臭い書なんか時代遅れだと言って馬鹿にしているんですよ」
「まあ、お父様たら。何も皆さんの前で、そんなことを仰らなくても・・」と美代子が抗議した。
「ヨッちゃん。今、お兄さんの影響でと言ったね。お兄さんがいたのかい。知らなかったなあ」

 桑山が真剣なまなざしを佳子に向けた。佳子は桑山に見つめられて桑山の視線が眩しかった。桑山には兄の失踪のことは勿論、兄がいることも話していなかった。

 兄の失踪のことを話したら桑山が自分の許を離れていきはしないかという虞があった。今なにげなく兄の影響で書道を始めたと洩らしてしまった。迂闊だったと後悔した。何れ判ることとは言え、何も初対面の岡元克彦の前で真相を語る必要もない。佳子はさりげなく言った。

「桑山さんにはお話していませんでしたが、私の兄は兵庫県で硝子会社に勤めているんですよ」と答えて俯いた。
「おいおい、桑山、新聞記者にしては呑気だな。恋人の家族関係もまだ判っていないのかい」と今度は原良彦がからかった。
「そんなんじゃぁないんだ。この人は私の行きつけの寿司屋さんの看板娘でね、書が好きだというので今日連れてきただけなんだ」と桑山が弁解した。              
「そうむきにならなくてもいいよ。心臓の強いお前にしては、うぶな所があるんだね。佳子さん、こいつは案外純情な所があるんですよ」と原良彦が佳子の手前、少し桑山をからかいすぎたと思ったのか桑山をたてるような言い方をした。
「ほんとですわ。お似合いのカップルができあがりますわ。ねぇ、お父様」と原 美代子が同意を求めるように父の方を見た。
「あらっ。困りますわ。私」佳子は赤面した。現在の自分の立場が、同席の皆に誤解されていると思った。今まで、桑山のことを結婚の対象として意識したことはなかった。兄の久が失踪して寂しく思っていたところへ現れた桑山は、洋子にとって兄のような存在だった。今日も何気なく兄について展覧会にでもでかけるようなつもりでついてきたのである。ところが、岡元克彦はじめ、原夫妻も桑山と佳子を恋人同志のように理解して応対しているのである。佳子の体中にジーンと熱いものが流れた。それは今まで経験したことのない甘酸っぱい感情の波であった。そして、兄のことが話題に登らなければいいがと祈るような気持ちであった。

 ところが一座の者には佳子の態度が乙女の恥じらいとして映り好感を与えた。
「桑山さんも良い人を選ばれた。書は人と為りを表すと言って書をたしなむ人に悪い人はいない。自分が書が好きだからいうわけではないが、書を書くときには無心になれる。邪心を捨てなければ素直な書は書けない。そういう意味で書を書く人に悪人はいない。特に若い女性が書を書くのはいいことだと思います。女性の綺麗な筆跡は見ていても実に気持ちがいい。桑山さんも門川さんからラブレターを貰うのが待ち遠しいことでしょうな。ハッハッハッ」
「そんな・・・・」
「私も美代子には書を習わせようとして、随分やかましく言ったが、この娘はテニスのほうが忙しくて、遂に書の良さを知らずに親元を離れて行ってしまった。良彦君、今からでも遅くはない。家庭に入ったら、テニスばかりしているわけにもいかないだろうから書を習うように勧めてやって下さい」
 岡元克彦は若くて美しい同好の士ができたのが,よほど嬉しいとみえて能弁になった。

「そうですね。お義父さんの仰る通りですよ。書をたしなむ女性には奥床しさが感じられます。私の大学時代の寮での後輩に書のうまい男がいましてね、書道研究会に入って展覧会などにも頻繁に出品していましたよ。学部が違っていましたので、あまり親しい間柄ではありませんでしたが、何でも外交官を志望していましてね、語学が達者な男だったと記憶しています。風格のある男でしたよ。あの風格は書で養われたのかもしれませんね。美代子にもせいぜい家事の合間には手習いをさせるようにしますよ。勿論僕も暇をみて習うことにしたいと思います」
 原良彦は岳父の手前調子のいいことを言っている。          

 佳子は原良彦がそう言った時、今彼が話題にとりあげた男というのは兄門川 久ではないかと思った。いや、門川 久に間違いないと思った。胸が高鳴った。兄は原と同年配で、東大の書道研究会に入部していたし、外交官を志望していた一時期があった。しかも学生寮に入寮していた。
 だが、佳子はその人は自分の兄ではないかと思うということをどうしても口から出すことが出来なかった。そのことを口に出せば、兄の失踪のことをいきがかり上、説明しないわけにはいかない。兄の失踪のことを桑山に打ち明けるにしては、この場所と時はいかにも相応しくなかった。桑山を恋する女の気持ちが本能的に影の部分を隠させた。

 男達は美代子の手料理に舌鼓を打ち、意気投合して杯を酌み交わしながら談笑していたが、佳子の耳にはその会話は意味のある言葉としては響かなかった。佳子は兄の安否と行方のことを案じながら桑山にどのようにして打ち明けるがを考えていた。

 岡元克彦と原夫妻が名残惜しそうに引き止めるのを振り切って暇乞いをしマンションを出ると外は薄闇に覆われ、武庫川の堤防の上を行き交う自動車のヘッドライトが二人の影を写し出した。丁度通りかかったタクシーを拾って、西宮駅までと桑山が運転手に命じた。
「ヨッちゃん。何だか浮かない顔をしているね、どうしたの、気分でも悪いのかい」
「いいえ、一寸考え事をしていたのよ」
「何を考えているの」
「桑山さん、怒らないで聞いて頂けるかしら」
 佳子が意を決したような口調になったので、桑山も身構えたような気持ちになり、佳子の顔を覗き込んだ。

 桑山の頭には岡元家での会話のやりとりが瞬間的に脳裏を駆けめぐった。女の口から言わせてはならない言葉が、出てくるのではないかと不安になった。もし佳子の口から求愛の言葉が出てくるとすれば、このタクシーの中は場所としては相応しくない。運転手が聞き耳をたてている様子が手にとるように判る。やはり桑山の方から求愛したかった。
「ヨッちゃん、ちょっと待ってくれないか。西宮駅についてから音楽でも聞きに行こうよ」
 運転手の咳払いが沈黙を破った。

「運転手さん、西宮駅前の音楽喫茶へやってくれないか」
「はい」と言って運転手はまた咳払いをした。
 タクシーを乗り捨てると桑山は「白夜」という看板の出ている喫茶店へ入っていこうとした。
「桑山さん、歩きながら私の顔を見ないで聞いて欲しいの」
「待ってくれ、僕から言わせてくれないか」
「いいえ、私の方から言っておきたいことがあるの。桑山さんから嫌われると思うから今まで言いだせなかったの」
 佳子の口調に桑山は自分が何か勘違いしていることに気がついた。
「どうしたんだい。さあ、黙って聞いているから言ってごらんなさい」
「さっき岡元さんのお宅で、私に兄があることが話題になったでしょう。そのことなの」

 桑山は佳子の語調が乱れたので、何か事情がありそうだと気がついた。佳子の兄に何か人に言えないような事情があるのではないかと思った。見ると佳子の肩が小刻みに震えている。
 桑山は色々なことを想定した。兄が前科者の場合、兄が身体障害者の場合兄が妾腹の子の場合、彼女はこれから何を言おうとしているのか。彼女がこれから打ち明けようとしている兄にまつわる秘密を聞いたとき、自分はそれを克服して愛を誓うだけの自信があるか。佳子に対する気持ちは本物の愛と言えるか。それが今試されようとしている。一瞬の間に桑山の胸中をこのような思いが電流のように交錯した。

「実は僕もそのことは初耳だったので、ヨッちゃんに是非聞いてみたいと思っていたところなんだ。お兄さんが兵庫で硝子会社に勤めておられるんだって」
「ええ、そうなの。三年前まではそうだったの」
「三年前までは・・・それでは今は」
「現在は行方不明で生死不明なのよ」
 佳子は肩を震わせて泣きじゃくった。言葉に出してしまうと急に気が楽になって何でも話すことができるよしな気持ちになった。
「何だって。行方不明だって」
 桑山は自分で想定していた場面よりも事態は単純なので内心ほっとした。「桑山さんには今までこのことを隠していて、申し訳なかったと思っています。兄が行方不明だと判ったら、桑山さんに嫌われると思って、なかなか言いだせなかったわ。でもいつかは打ち明けなければならない時がくるのは判っていたの。でもこんなに早くその時がくるとは思っていなかったわ」

 佳子は泣くことによって心のわだかまりが浄化されたのか能弁になった。兄の生い立ちから始めて、兄が大学に進学するについて、父との間に生じた小さないさかい、兄が行方不明になった日の前後の経緯等を佳子は淡々と話した。
「それで、手掛かりは全然掴めないの。行方不明になった動機も推測できないのかね」
「私なりに色々考えてみたわ。でもどうしても判らないの。毎日兄の写真に陰膳を供えている母の姿を見るのが可哀相で堪らないわ。私はもう兄がこの世に生きていないような気がするの。私にはとっても優しくて頼りになる良い兄でしたのに」

 佳子がまた涙ぐんだので、桑山はポケットからハンカチを取り出して涙をそっと拭いてやった。
「事情はよく判ったよ。僕も新聞記者だから、僕なりに調べてみよう。お兄さんはきっと健在だよ」
「さっき岡元さんのお宅で原さんが書道研究会に入部して外交官を志望している語学に堪能なお友達のことを話していらっしゃったでしょう。私はあのとききっと、その人が兄だろうと思ったわ。でも、初対面の方にお話すべきことではないので黙っていましたの。世の中って意外に狭いのね」

 桑山は佳子の打ち明け話を聞いて、門川 久が生きていることを願った。 今でも佳子に好意を寄せながらも求愛できずにいたのは、佳子が角寿司の一人娘だと信じ込んでいたからである。一人娘でなく兄がいるとなれば、事情は変わってくる。正々堂々と両親に対しても佳子を嫁に欲しいと申し込むことができる。

 桑山は三人兄弟の長男で姉は嫁いでいるが、下の妹は高校を卒業して九州で勤めている。両親は健在で父は九州の市役所を定年退職した後、運輸会社に再就職して事務を執っている。祖父から受け継いだ小さな家作に住んでいるが、老後を悠々自適の生活を送る程の資産や蓄えがあるわけではなく、何れは桑山が両親を呼び寄せて、老後の世話をしなければならない立場にあった。

 桑山はこの立場をよく自覚していたので佳子に好意を寄せながらも煮え切らない態度をとっていたのである。角寿司の久枝から佳子にいい人があったらお婿さんを世話して下さいと謎をかけられたときも、態度をあいまいにして誤魔化してきたのである。

 新聞記者という職業は自ら望んで選んだ仕事である。そして仕事に生き甲斐を感じていた。いくら佳子に好意を寄せていても、佳子が角寿司の一人娘であれば、嫁にくれとは言いだせなかった。そして望まれても、新聞記者を廃業して角寿司へ入り婿になることは最初からできない相談であった。そこに桑山のジレンマがあった。だが、今佳子から打ち明けられて、兄がいることが判った。たとえ行方不明であっても死んでしまったという証拠はない。佳子の兄を捜し出せば胸を張って、佳子に求愛することができる。桑山は一条の光を暗闇の中に発見した思いであった。

 桑山は門川 久に生きていて欲しいと願った。いや生きていて貰わなければ困るのである。いまでは佳子に寄せる愛情が、丁度雪達磨がどんどん大きくなるように、次第次第に大きくなり、加速度がついて自分の手では制御できない程になっていた。それと比例して佳子の兄は自分の手で捜し出してやるぞという執念のようなものが自分の体内に膨らんでいくのを感じていた。

新映像配信システム資料請求(無料)はこちら

1,000万円も夢ではないBIZ-ONE

毎日が給料日!毎日の振込が楽しみのDiscovery-net

小遣い稼ぎの虎の巻きBIZ-ONE

                      


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加