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沢村は報国工業の工事部長として、今回の関東石油横浜工場の定修工事については全責任を委ねられている。松山一朗の死亡事故が発生したからといって今回の定修工事を一日でも遅らせることは出来ない。納期は厳守しなければならない。
沢村は関東石油の定修工事を担当している主だった部下を集めて、安全作業に充分留意するよう訓示をするとともに、松山一朗の事故の処理は沢村が引き受けることを表明した。現場に対しては今回の事故で作業員の士気が低下しないよう空気を入れ、工事は納期内に完工するように特に指示した。
沢村が知り得た情報を持って関東石油に報告に行くと工場長室に工務部長製造部長、総務部長が集まってきた。ここで一番問題となったのは松山一朗の身元が判らないことである。
犬山組に残されている記録にはドヤ街にある簡易旅館福寿荘が現住所になっており、年齢26才氏名松山一朗ということだけが書かれているに過ぎない。同僚の梅林も出身地は大阪方面らしいというだけで、個人的な付き合いは全くなく、一週間程前に犬山組へ連れてこられた松山と一緒に仕事をすることになっただけであるから、何もわからないという。梅林が松山の出身地は大阪方面だとする根拠は、関西弁が会話の中に混じっていたというだけのことである。関東石油の幹部は身元のはっきりしない者が報国工業の指揮下に入って、作業していたことを取り上げて、報国工業と沢村の責任を追求した。沢村はただ平謝りに謝る他に術がなかった。
警察でも松山の身元が判らないことに対しては異常な関心を示した。 調査に来ていた刑事が 「この仏は大きな山を踏んでいるかもしれんな」と洩らしたのを沢村は耳にした。 警察では府中市の三億円強奪事件が未解決なので松山の死亡を三億円事件の犯人と関係ないだろうかという観点からチェックしているようであった。
松山一朗の遺体は身元が確認されないままで、横浜市立大学の付属病院へ移送された。司法解剖するためである。身元の調査は鶴見警察で行うことになった。
身元の確認ができないままに、遺体を何時までも放っておくわけにもいかず、報国工業の手で葬式を営むことになった。司法解剖が終わったら報国工業が責任をもって遺体を預かり、法定限度一杯預かってそれでも且つ身元が判明せず、遺族が現れない時は、火葬にすることで当座の遺体の処理については結論が出された。
元請け会社である報国工業の指揮下で発生した事故なので、遺体の引き取り手がない以上元請け会社の責任において葬儀を営むことが色々な意味で問題が少ないだろうと沢村が判断し、社長の決断を得た結果である。本来であれば犬山組と雇用契約のある松山の公務上での事故死であるから、犬山組の責任において、遺体の処理が行われる性質のものであるが、犬山組には葬儀を営むだけの資力もないし暴力団に繋がりのありそうな気配が察知されたので、関東石油に迷惑がかかることを虞れたからである。いずれ遺族が現れるとしても遺骨を遺族の手に確実に渡すためには、報国工業で供養し保管するのが最善の方法と判断された。
鶴見警察では松山の身元を確認するため、松山の宿泊先である福寿荘へ係員を派遣し経営者に松山についての情報をただしてみたが、一週間程前の4月30日に投宿し、松山一朗26才と称していたということしか判らなかった。松山の宿泊していた部屋に松山の持ち物として残されていた物はスーツケース一つに詰め込まれていた背広一着と下着類5枚、セーター1枚だけであり、あとは洗面器に投げ込まれていたタオル、歯ぶらし、石鹸、安全剃刀があるだけであった。持ち物の中には身元を知る手掛かりとなるものは何一つなかった。背広にも名前の縫い取りはしてなかった。
ただ手掛かりになるかもしれないと思われるものは、スーツケースに入っていた一冊の手帳である。この手帳は神戸銀行製のものであり、手帳の中には前から五ページほどにわたって達筆で最近流行の歌謡曲の歌詞が五曲書き抜かれていた。そして手帳の裏表紙に印刷されているカレンダーには1月17日、5月26日、7月3日、7月22日の日付に○印が付けられていた。
松山は几帳面な性格らしく、スーツケースにはいっていた下着類は綺麗に洗濯してきちんと畳んで入れられていた。布団も丁寧に畳んであり、灰皿の中には吸殻も残っていなかった。
鶴見警察では松山から採取した指紋を警視庁へ送り、犯罪者台帳の指紋と照合することを依頼した。同時に兵庫県警と大阪府警へも指紋を送ると共に松山一朗名で登録されている前科者台帳と戸籍の調査を依頼した。 沢村は鶴見警察へとりありずの挨拶に行ったときに以上のような手を警察が打っていることを聞き出してきた。 松山一朗の遺体は葬儀屋の手によって翌5月8日に常泉寺へ帰ってきた。形ばかりの通夜が遺族の参列しないまま、報国工業が施主となって寂しくとりおこなわれ、明けて5月9日午後3時より告別式と定められた。
司法解剖の結果は、外傷はなく酸素欠乏による窒息死というのが司法医の所見であった。 告別式の時間が迫ってきたが、警察の必死の調査にもかかわらず松山一朗の身元は依然として確認されない。告別式に先立ち葬儀屋が警察へ埋葬許可を貰いにいったが松山一朗の身元が確認されていないのでなかなか許可が下りず沢村はじめ関係者を慌てさせた。 常泉寺では住職が松山一朗の祭壇に向かってお経を上げはじめた。 山本正にはお経の声が一際もの悲しく聞こえた。 広いお堂には30名ばかり、喪服を着た弔問客が神妙な顔をして座っている。その中には関東石油の幹部の顔もあった。
境内にも34〜5人の参会者が整列して写真の飾ってない祭壇に向かって次々に焼香を始めた。一般の葬式と違って女と子供の姿が見えず男ばかりが集まってきている。境内には花環が10本程飾られているが、報国工業、葦原機工、海野組、極東工業の会社名がみえるだけで、あとはそれぞれの会社の従業員一同という名で飾られている。関東石油と犬山組の花環が出ていないのは奇異な感じを参会者に与えた。とりわけ沢村と山本は関東石油の花環がないのを複雑な気持ちで眺めた。 「やっと埋葬許可が貰えました。三時の出棺にはどうにか間に合いました」 警察へ交渉に行っていた葬儀屋が鼻の頭の汗を拭きながら帰ってきた。 関東工業、報国工業、葦原機工からはそれぞれ20名くらいずつ、この松山一朗の葬儀に参列したが、海野組、極東工業からは代表者が焼香にきただけであった。 犬山組からは松山と一緒に仕事をしていた梅林が音頭をとったらしく、作業服姿の職人が2〜3人梅林とともに参列していた。参列者の注目をひいたのは両足に包帯をぐるぐる巻き、車椅子に座って威勢のいい若者達に取り巻かれている50年配の小柄な男である。この男が犬山組の親方犬山勇次である。犬山は読経も終わりに近づき出棺があと10分後に迫った頃、ドヤドヤとやってきてサッサッと引き上げて行った。 その時沢村は受け付け係として弔問客の名刺やら香典の整理をしていた。トラックが常泉寺の境内に乗り入れられたとみるとドヤドヤと作業服姿の若い男達が荷台からとびおりた。 屈強な若者達は車椅子を荷台から取り出すとトラックの横に置き、助手席側の扉を開けた。そこには小柄な男が座っており、若者達に抱き抱えられて車椅子に移された。その男は若者達に守られるようにして受け付けまでくるとやおら懐から香典袋を取り出して机の上に置いた。見ると三千円の札がむきだしで添えられていた。 「ご苦労さまです。どうかご署名を」 沢村がサインペンを差し出すと、犬山はジロリと沢村へ一瞥を送り金釘流の署名をした。 沢村は犬山組が今後どのような動きをするか気になった。犬山勇次は若者達を従えて、車椅子のまま仏前で焼香を済ませると不遜な態度で帰って行った。それは疾風の如く現れ、疾風の如く去っていった。
参会者があっけにとられ、静寂のあとにざわめきが起こったとき、今度は二人連れの若い男がカメラをぶち下げて受け付けへつかつかと歩み寄った。名刺には日本新聞社社会部桑山由雄と印刷されている。 「鶴見署で聞いてきたのですが、引き取り手の無い仏の葬式というのはここですか。一寸取材したいので、葬式の責任者に会わせてくれませんか」と言う。 沢村はまずいことになったなと思った。 日本新聞社は大手の新聞社であり、その社会面の記事は派手に取り扱うことで定評があったからである。関東石油では一ヵ月前にも構内の常駐清掃業者がタンク内の清掃作業中に死亡事故を起こしていたから、関東石油の安全管理体制にメスを入れた記事にされることは十二分に予想された。しかも今回の事故では引き取り手が判らないという俗受けのする記事としては恰好の材料なのである。
沢村としては関東石油の生産第一主義の管理体制に対しては常々改善方を申し入れていたし、今回の松山一朗の事故に関しても、関東石油の作業指示の仕方に過失があると考えていたので、そのこと自体を記事にされることは今後の安全管理体制の改善にとっては結構なことである。 しかし関東石油の管理体制に問題があるとはいえ、今回の事故が報国工業の配下の業者のもとで起こったものであるだけに、困った問題なのである。あまり派手に扱われると報国工業の商売にからんでくるからである。 おそらく関東石油では自社の管理体制に問題のあったことには頬かぶりして報国工業に今回の事故の責任を転嫁してくることは目に見えていた。
沢村が工場長室へ松山一朗の事故が発生した直後、謝りに行ったときにも関東石油の幹部の言動には、そのことを予想させるに充分な兆候がみられたし、今日の葬儀に関東石油から花環が贈られていないという事実が彼の予想を裏付けている。 今回の事故の責任が関東工業にあるということになれば、構内常駐業者の指定を取り消されることさえ予想される。
報国工業に替わって構内常駐業者の指定を受けようと虎視眈々として狙っている同業者は沢山ある。特に東都プラントの動きには注意しなければならなかった。今回の事故は大騒ぎにならずに秘かに処理して貰いたいというのが沢村の偽らざる心境である。 「私が責任者の沢村ですが」 「事故の原因は何だと考えますか」 「まだ調査が終わっていないのでよく判りません」 「関東石油では4月の3日にも同じような事故を起こしていますね。同じような事故が続いているのは、関東石油の安全管理体制に何か根本的な欠陥がありそうに思えますが、あなたはどう考えられますか」 案の定、沢村が予想していた質問を発してきた。 「私共は関東石油さんから御仕事を戴いている立場ですから、関東石油さんの安全管理体制に欠陥があるのかないのか軽々しく意見を申し上げることは差し控えたいと思います。一般論でよければ,私なりの見解は持っております」 「大企業の横暴というやつですか。まぁいいでしょう。その一般論を聞かせて下さい」 「私どもは工事会社ですから、関東石油さんに限らず、他の会社からも仕事を戴いて施工をしますが、安全対策にかける予算が少ないように思います。お客さんの立場に立てば施工上の安全対策費は事故さえ起こらなければ少ない方がいいに決まっています。安全対策費は付加価値を産みだす投資とはいえませんからね」 沢村は煙草を取り出して火をつけながら続けた。 「例えば、私どもでも架台の上にパイプを乗せて配管する場合は非常に多いのですが、高所作業なので足場が必要になります。安全確保の観点から言えば手すりをつけて足場の下には安全ネットを張れば万全でしょう。その上作業員には安全ベルトをつけさせます。ところが工事が終われば、足場は取り払ってしまうのですから、投資効率は非常に悪くなるわけです。できることなら最小限の費用で済ませたいと思うのは人情です」 「足場が不完全だったことが今回の事故の原因だということですか」 「最初にお断りしたように、一般論を言っているのです。次に私どもの業界にはまだ同業者組合がありませんし、新規参入者が多いため、激しい受注競争が行われます。適正な価格で競争するのならいいのですが、中には極端な安い値段を出して業界の価格体系をぶち壊してしまう業者があります。同業者組合がないのでそれを規制することができないのです。仕事を確保するためには対抗上、値を下げざるを得ない場合があります。業者がお互いに足を引っ張りあって自分の首を締めているのが現状です。このように、安値受注競争が行われれば採算をあげていくためには、安全対策費のようなものは最初に槍玉にあげられます」
沢村は煙草の吸殻を灰皿へ捨てて湯飲みに残っている冷えたお茶をすすった。 「人手不足のために、技能工が不足し素人が現場へきて一人前の顔をして作業しているのも、安全上は大きな問題を抱えています。このことは客先の会社についても言えることだと思います。会社の規模がどんどん大きくなり、設備も最新鋭のものにどんどん変わっていきますが、技術者や技能者の質、量ともにこれに追いついていくことができない。それでも採算をあげていくためには、未経験の技術者でも新鋭の設備に配置せざるをえない。特に定修工事のような場合、経験不足の技術者が工事を担当すると無知なるが故の危険な作業指示を業者に与える。これを受ける業者の作業員も未熟連工が多いので危険な作業指示に対しても疑問を抱かず指示された通りの作業をして事故を起こす」 頷きながら沢村の話を聞いていた桑山由雄が更に鋭い質問を浴びせかけてくる。 「関東石油の工事発注額に占める安全対策費は何パーセントぐらいだと思いますか」 「私どもでは判りません」
沢村のところへ新聞記者が取材にきているということを聞きつけたとみえて関東石油の総務課長が血相を変えて本堂から飛んできた。 「今、取り込み中で出棺も間近だから取材は遠慮して貰いたい。沢村さんも駄目じゃぁないか、勝ってに取材に応じたりしては」 関東石油の総務課長は顔半分をひくひくさせながら桑山と沢村に食ってかかった。 「あなたが、関東石油の広報担当者ですか。よいところへ来られた。関東石油では今回の事故に対してどのような責任をとろうと考えていますか。聞けば遺体の引き取り手がないというではありませんか」 桑山は少しも怯む様子をみせない。 「とにかく、今は取り込み中だから帰ってもらえませんか。ノーコメントです」 暫く総務課長と桑山の間で帰れ帰らぬという押し問答が繰り返されたが霊柩車が到着して出棺の時刻となったので、桑山は取材を断念したのか、意外に素直に引き上げて行った。 このようにして前代未聞の葬儀は終わった。 野辺の送りに火葬場まで同行した沢村は梅林にお骨を拾わせて、常泉寺に持ち帰り遺族の現れるまで供養して貰うよう住職に依頼した。慌ただしい一日は終わった。
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