テニスコートにすらりと伸びた脚を惜しげもなく陽に曝して岡元美代子が立っている。激しいラリーの応酬。岡元美代子が陽に焼けた顔に白い歯を覗かせて打ち込んできた。茶色のアンツーカーコートの隅に白球がバウンドした。ラケットを右手に持って球を追っかけようとするが、足が動かない。球は逃げてしまった。
山本は夢を見ていた。球が逃げたところで目が覚めた。時計をみると一時間程眠りに落ちたようである。山本はここ数日、岡元美代子と会っていないのに気がついた。
岡元美代子は関東石油の秘書課に勤めている女子事務員である。美代子は東京女子大学の英文科を卒業して二年前に関東石油へ入社した。父が山王グループの商事会社の常務取締役の要職にあり、関東石油の社長とは懇意にしている。
関東石油では4年制の女子大学卒業生は採用していないので、本来ならば岡元美代子は関東石油には就職できないのであるが、父の縁故で入社したわけである。岡元美代子はうりざね顔の美人である。その均整のとれた体の線とすらりと伸びた脚線美にはミニスカートがよく似合った。彼女が入社したときは、関東石油の独身社員が騒いだ。美代子が入社したのはどうやら花婿候補を見つけるためらしいという噂がまことしやかに流れたからである。 サラリーマンから出世して山王商事の常務になった美代子の父は、美代子も将来有望なサラリーマンと結婚させたいという考えを持っていた。サラリーマンの妻となるためには、自分でも勤めの経験を持っていたほうが結婚してからも夫がよく理解できるだろうという親心から美代子を関東石油へ入社させたのである。噂は出鱈目ではなかった。
美代子は学生時代テニスをしていたので入社すると直ちにテニス部へ入部した。関東石油のテニス部員は男子20名で女子は10名であった。山本は学生時代テニスで鳴らした腕をもっていたので、入社してからもテニス部に席を置き、美代子が入社したときにはキャプテンをしていた。
美代子がテニス部へ入部するという噂が流れるとテニス部の入部希望者が急に増え、50名の大世帯になってしまった。テニスコートは本社と横浜工場と共用で関東石油横浜工場内に設けられており、本社の部員は工場まで出掛けてくることになっていた。
美代子はテニス部の中で一躍スターになり、女子部員の中には反感を持って退部する者もいたが、女子が退部しても男子の入部希望者が多かったのでテニス部としては部員の数が増える結果となった。退部した女子はいずれも部の中では女王的な存在であった。顔に自信があるかスタイルに自信を持った女達で男からちやほやされることに生き甲斐を感じるような連中である。 彼女達が去った後にも居残る女子もいたがそういう女子部員達は平均的な女子事務員で自ら中心になってクラブ活動を盛り上げて行こうというほどの積極性は持ち合わせていない。テニスを楽しみ運がよければ未来の夫を見つけようという女達である。彼女達は美代子の周りに集まった。美代子には生まれつき人を魅きつけるものがあった。
学生時代に鍛えただけに技術は高く男子部員でも彼女と試合して勝てる者は少なかった。美代子がテニス部の女王になるのに時間はかからなかった。美代子にはテニス部の男子部員からは勿論のこと、会社の独身男性から度々誘いがかかった。美代子はそうした誘いに対しては一対一の行動はとらなかった。必ずテニス部の仲間か、同期生の女子を伴ってグループで交際した。彼女の行動には賢い母の躾けが反映していた。それでも山本はテニス部のキャプテンの特権を行使して、美代子と二人だけで映画を見に行き夕食を共にしたことが一回だけあった。その時の短時間の語らいの中で美代子が山本に好意を寄せているらしいことは言葉の端々に窺うことができた。
山本は次第に美代子に魅かれていった。美代子の魅力もさることながら、美代子の父が山王グループの経営層にいることの方が山本にはもっと魅力があった。完成された管理社会の中で組織の頂点に早く登り着くためには、本人の実力もさることながら、組織の頂点にいる人の引きを得ることが一つの条件であった。
美代子が好意を寄せていると思われる男性は関東石油の中に山本を含めて三人に絞られるようになった。本社総務課の橋本と横浜工場製油課の栗原が山本のライバルであった。この三人のうち誰が美代子を射止めるだろうかという噂が独身男子の話題に登るようになっていた。それというのもこの三人が美代子の父から自宅へ麻雀の相手として招待を受けたからである。 山本、栗原、橋本は揃って美代子の自宅へ訪問する機会が多くなった。しかし、彼らは一人だけで訪問することはなかった。三人の間には、抜け駆けしないという黙契のようなものが成立していた。三人はお互いに牽制しながらも、美代子の父から麻雀の誘いがかかるのを期待して待つようになっていた。山本が美代子に会ってみようと思いついたのは、その日がテニス部の練習日だったからである。
松山一朗の事件があってからテニスの練習をさぼっていたので思い切り白球を追っかけてみたいと思った。美代子とネットをはさんで激しく白球を打ち合ってみたい衝動にかられた。そしてテニスの終わったあとで、次の日曜日にいつものメンバーでマージャンをしに行ってもいいかと申し込んでみようと思った。美代子とテニスをすることも楽しかったが、麻雀をしながら美代子の父に、今回の事件についての感想を聞いてみたいという気持ちがあった。山本が終業後、テニスコートへ久し振りにでかけてみると何時も山本より早くきて練習をしている筈の美代子の姿が見えない。 「岡元君は」 同じ秘書課の増田貴美江に聞いてみた。 「岡元さんはお休みよ。お気の毒様」 「会社も休んだのかい」 「いいえ、会社には出勤してらしたわ」 「どうしたんだろう。岡元君がテニスをさぼるなんて珍しいな」 「テニスよりデイトの方が楽しいんですって」 増田喜美江は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。 「何だって、相手は誰だ」 「まあ、そんなに怖い顔をして。山本さんは知らなかったの、最近お見合いをなさって、交際を続けていらっしゃるそうよ。相手の方は東大出のエリートで大蔵省にお勤めなんですって」 「そんな馬鹿な」 「栗原さんも、橋本さんも同じことを仰ったわ。そんな馬鹿なって。山本さんも道化の役をやらされていたのね」 「道化だと」 思わず声が大きくなった。 「三人とも鳶に油揚をさらわれたようなものね。関東石油では栗原さん、橋本さん、山本さんが岡元さんのお父様のお相手をするために麻雀に誘われていたのは有名な話だわ。皆さん鼻の下を長くしてせっせとお通いになったようですけれど、とんだ見当違いをなさっていたわけね」 「見当違いだって」 「そうなのよ。だから道化なのよ。岡元さんのお父様があなた方三人をお誘いになったのは、女姉妹ばかりの美代子さんに、男友達と親の監視のもとでお付き合いをさせるためだったのよ。岡元さんは決して一対一の交際をなさらなかったでしょう。お母様のさしがねらしいわ。岡元さんのご両親は男というものを研究させるために、関東石油の秘書課へ入社させたということだわ」 「君は誰からそんなことを聞いたのだ」 「社長からよ」 山本は痛烈な一撃を食わされた思いだった。 「山本さん。お相手をお願いします」 増田喜美江はラケットを右手に持ってアンツーカーコートを小走りに駆けて行くとサーブの球を打ち込んできた。増田喜美江がいつもになく元気に張り切っているのに彼は気がつかなかった。
山本の心に退職の気持ちが芽生えたのはこの瞬間であった。一度心の奥に芽生えた辞意はほむらのようにたちまち大きくなり、動かし難い決意に育っていった。山本は喜美江と球を打ち合いながら、自分は丁度テニスの球のような存在ではないかと思った。ラケットに打たれてあっちへ飛び、こっちへ飛んでいる。自分の意思で飛んでいくことができない。
松山一朗の事故の原因は関東石油の安全よりも生産を重視した会社の考え方に最大の原因があるにもかかわらず、それを指摘した自分が責任をとらされる。そしていままた、岡元美代子の両親の考え方を知らされた。
最初から道化の役を与えられて、有頂天になっていた自分が浅ましくもあり、情けなかった。岡元美代子を妻にして美代子の父の威光を利用し、出世の足がかりにしようと潜在意識の中で考えている自分の甘さを知った。
自分でどうすることも出来ない機構のことを思った。組織の固さというものを知った。組織というものは、要になって動かす立場にたてば組織を動かすという面白さがあるが、現在の自分の立場は組織の中で動かされているに過ぎない。岡元美代子の父親のように組織の頂点に立てば、関東石油の社長を動かし自分の娘を入社させ、山本、栗原、橋本達の純真な気持ちを踏みにじるようなことまでできる。
松山一朗の事件で示された総務部長や、製造部長のように組織の中で、何とかして頂点に近づきたいと願い保身にだけ窮々としている管理者がいる。また林田のように首にならなかっただけでも幸福だと考える男もいる。そこには主体性を持って行動する人間は見られない。山本はサラリーマンであることが嫌になった。少なくとも関東石油にいる限り、今回の事件でハンデキャップを負ってしまったので、先の望みが薄くなってしまった。林田の姿に自分の将来を見るような気がしてくる。
山本は大阪でクリーニング屋を大規模にやっている兄のことを思い出していた。兄からは自分の責任で事業をやってみるのは面白いことだから、山本にも兄の仕事を手伝わないかと今年の正月帰省したときに冗談のように勧められていた。そのときは冗談として笑い飛ばしていたが、今回のようなことがあると、真剣に考えてみなければならないことのように思えてくる。
山本は配置替えの通知を受けた翌日、辞表を提出して10日後にはさっさと会社を辞めてしまった。辞表を提出したとき工場長は型通り、慰留したが結局辞表を受理した。山本が辞表を提出したということを聞きつけて同僚やテニス部の仲間が集まり、会社の仕打ちは冷た過ぎる。組合で取り上げて問題にしようと熱っぽくいきまき心配してくれる者もいたが、山本は丁重に断り自分の意思を通した。
増田喜美江が山本さんが辞めるなら私もやめようかしらと言い、求愛の謎をかけてきたのには閉口した。
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