山本は早速兄のところへ住み込んで翌日から兄について廻り商売の見習いを始めた。 いくら実の兄が成功し勧めるからと言っても旧帝大の工学部出身者が全然畠の違う商売を始めようとすることは通常の常識では異常としか考えられない選択であった。
兄は人の生活に必要不可欠ではあるが誰も好き好んでやりたがらないことに目をつけて、これを企業化していくことが、これからの社会で成功するビジネスであるという持論を持っていた。その手始めに弟の山本には貸しおむつをやらせようとしていた。この商売はこまめに客先を廻って、汚れたお絞りやおむつを回収し新しいものと交換する。汚れたものは専門のクリーニング工場へ納めればよいのである。商売のこつは、客先に気に入られて信用をとり如何にして新しい客層を開拓していくかというところにあるように思えた。
貸しおむつの場合には特にこのことが言えた。お絞りの場合には決まった店へ決まった時間に廻っていけば纏まった数が捌ける仕組みになっているので商売自体は安定しているが、貸しおむつの場合には一件毎に扱う数が小さく客先も特定していないので客先の口コミによる宣伝が大切であった。
山本は兄のもとで一ヵ月程見習いをすると大体商売のやり方を覚えたので山本自身の客を作ることに専念した。兄も早く独立させてやりたいと考えており、そのことについては異論はなかった。兄は専門のクリーニング工場も持っているので、客を開拓しさえすれば発展の余地は相当残されていると思った。
山本は同窓会の名簿を大学、高校、中学と取り出しアパートに入居している同窓生にダイレクトメールを発送し電話をかけることから始めた。卒業以来始めて山本と交信する者が殆どであったが誰も山本の奇抜な商売に驚いていた。丁度山本の年代の同窓生は結婚したてか結婚後3年位の者が殆どなので貸しおむつの新しい客先を開拓するには好都合であった。大阪、神戸、西宮周辺の団地のアパートや社宅に入居している同窓生は数えていけば50人ほどいた。新しく取引の始まったお客に対しては、新しいお客を一件紹介して貰う毎に紹介者に対して手数料を支払うことにした。
アパート住まいの若い主婦達はこの申し出に飛びつき次から次へと山本に新しい客を紹介してくれた。大学出の貸しおむつ屋さんという物珍しさもあった。持ち前の人当たりの良い物腰がアパートの主婦達に気に入られて、口伝えに山本の客はどんどん増えていった。
1年程で山本は兄のもとから独立し貸しビルの一室を借りて配達専門の使用人を3人雇い入れライトバンも三台持つことができるようになった。山本はアパートの主婦対象の貸しおむつ専業ではお客の入れ代わりが激しいのでやはり兄のやっているように大口の需要があり客層の安定しているお絞りにも力を入れることにした。喫茶店、料理屋、寿司屋、キャバレヒ、バー、スナック、ホテル廻りに多くの時間を割くようにした。こういうところでは既に同業者が出入りしていて新しく注文を取ることは難しかったが山本は根気 よく何回も顔を出して少しずつではあるが注文がとれるようになった。
山本は生来、人の心を読むのがうまかったので、こういう店へ出入りするときには、商売の話はしないで世間話をして帰るようにしていた。世間話の中で必ず経営者やその家族の趣味、嗜好、誕生日を聞き出すことを忘れなかった。
根気よく出入りを続ける山本に同情して試しにその使用量の何分の一かでも納めてみろということになると山本はすかさず御礼と称して家族の趣味、嗜好にあった贈り物を届け家族の誕生日にはプレゼントをすることにした。経営者の家族に気に入られるようにすることが、商売のこつであることを山本は信じていた。山本の根気よい営業が効果を現し逐次大口のお絞りの注文が増えてきだした。
ある日、山本は難波の「角寿司」へ遊びにきて世間話をして、例によって家族の趣味、嗜好、生年月日を聞き出して店へ帰ってきた。いつものように聞き出してきた情報を山本が工夫して作った得意先帳に記入した。 門川作造。 大正6年1月17日生。盆栽いじり。 門川久枝 大正9年7月22日生。芝居。 門川 久 昭和20年1月17日生。書道。独身。関西で板硝子会社勤 門川佳子 昭和22年7月3日生。書道。旅行。独身。 務 注 角寿司は作造が包丁一本で作り上げた。今では喫茶店、レストラン、ビジネスホテルを経営す。職人気質の作造を攻略することに工夫を要す。 このように記入してその日の仕事を終えた。
山本は貸しおむつ屋の方は軌道に乗りかけたが、我ながら変な商売を始めたものだと思う。兄が山本に勧めてくれて始めた商売ではあるが、商売を始めるに先立ち 「貸しおむつ屋は主婦のサシスセソ業のセ業を分担企業化したものだ。これも余暇時代の産物さ」 と言っていたことを思い出しなるほどそうだと実感が湧いてくるのである。
兄の説明によればサは裁縫のサである。シは躾け、スは炊事、セは洗濯、ソは掃除ということである。家庭の主婦は昔から家庭にあって家事に従事していた。家事といえば裁縫、躾け、炊事、洗濯、掃除に尽きる。一昔前はこのサシスセソ業に随分時間をとられたものである。化学繊維、合成繊維はまだ発明されておらず、靴下を一枚とりあげても、木綿製であり二日も履くと爪先、踵の部分に穴が開いた。穴のあいた靴下の繕いをするのは一仕事であった。既製品の服もサイズが豊富に揃っているわけではなく、布地を買ってきて子供達の背丈を計り、肩幅の寸法をとり、胴回りに巻き尺をあてて裁断し自分でミシンを踏んでいた。
子供達は母親のそんな姿を見て、母を尊敬し母の編んでくれた手袋をさすごとに母の姿を思い出したものである。
それが今は、靴下の穴かがりをする主婦はまずいない。布地を買ってきて 子供の服を縫ってやろうと考える母親もいない。靴下は穴が開けば捨てるものであり、子供の服はデパートかスーパーマーケットのバーゲンセールで吊るしを買うものだと信じている。
家庭の主婦から裁縫という仕事は無くなった。
炊事も主婦の大切な仕事である。米をといで薪を割りかまどにかけて炊いたものである。湿った薪の火付きが悪く、煙を目に入れて涙を流しながら火吹き竹を吹いたものである。
「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋取るな」等という飯炊きの諺もあった。生活の智慧というものである。 ところが、今は米こそ研ぐがカップで秤量したあとは電気釜に入れてスイッチを入れさえすれば、立派な御飯が出来上がる。マヨネーズは食料品店で買ってくるものだということは知っていても、卵を割ってポールに入れサラダ油を注ぎながらかき廻して作るのだということを知っている主婦は殆どいない。ここでも炊事という重要な仕事が安直に片づけられるようになってしまった。おふくろの味がなくなってハムのぶつ切り、目玉焼きと誰が作っても同じ味覚のものとなってしまった。
洗濯にしてもたらいや洗濯板なんかは探しても見つけられない時代物になってしまった。洗濯機に投げ込んでスイッチを入れておけば乾燥されて出てくるのである。
掃除。これもまた便利な道具がある。はたきをかけて、茶殻を撒いて箒で掃いたりすることもなくなってしまった。
裁縫、炊事、洗濯、掃除と主婦の五大家事のうち四つまでが、一昔前に較べて手間のかからない仕事に変質してしまった。若い主婦達は便利な洗濯機があってさえ、自分の生んだ子供達のおむつを洗うのを嫌う。貸しおむつ屋を使い、使い捨ての紙おむつを使いたがる。
そのお蔭で山本の商売である貸しおむつ業なるものも存在理由が認められるようになってきた。その意味では文化生活のお蔭で主婦が楽をし楽に慣れてしまったから山本達の商売が成り立っていくのである。
裁縫、炊事、洗濯、掃除と四つの家事を簡単におそらく一昔前の十分の一位の時間で済ますことのできるようになった現代の主婦達は時間をもてあましだした。豊富に使える余暇時間。この時間をどのように使うか。豊富な時間は子供の躾け(教育)に向けられるようになった。ママゴン、教育ママの出現である。
大学生の入学試験に付き添い、会社の入社試験にまで母親が付き添ってくるようになってしまった。学習塾が繁盛する理由はそこにある。これからは躾けに着目した産業が栄えることになるだろう。時代の背景がそのようにできている。
兄の説明は説得力を持っていた。自分の生業の存在理由を家庭の主婦の仕事と結びつけて説明してくれた兄の熱っぽい口調に山本は心を動かされて、この道に入ったのである。山本は自分の行為に理屈をつけないと行動できない性質の男であったといえる。いや、自分の行為に後から理由づけができないと不安になる男であると言った方が正確かもしれない。
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