山本は角寿司へ顔を出した。お客として寿司をつまみながら板前相手に世間話をしていた。山本の得意先カードに記入する情報を集めるために角寿司の家族のことについて当たり障りのない話題から誘導していた。 「誰か来て頂戴。佳子の様子がおかしいのよ」 二階の方から突然ただならぬ女の声がした。 「お嬢さんが」 山本の相手をしていた板前が二階へ急いで上がって行った。それと入れ代わりに角寿司の女主人が動転しながら階段を下りてきた。 「早く救急車を呼んで頂戴」 「どうされたんですか」 「佳子がガス中毒で死にそうだわ。早くお医者を」 板前が慌てて電話に飛びついた。 「ちょっと失礼」 山本が二階へ上がって行って見ると佳子と呼ばれた若い娘が書き散らした習字の半紙の上に俯くような姿勢で横たわっている。部屋の隅には火の消えたガスストーブが置いてある。先に上がってきた板前が開けたらしく窓は開放されているがなす術もなく、お嬢さんお嬢さんと叫びながら体を揺すっている。山本は状況を見て酸素欠乏だと思った。 板前に手伝わせて佳子を仰向けに横たえると板前に脈をとるように指示していきなり、口移しの人口呼吸を始めた。 「まだ脈がある。早く医者を」 板前が喜びのこもった声で叫んだ。 山本は人工呼吸を施しながら松山一朗の事故死のことを思い出していた。 あのときは、人工呼吸が遅れたために助かる命を助けることが出来なかった。そのために自分は会社を飛び出すことになってしまった。今また同じような状態で妙齢の女性が死線を彷徨っている。何としても助けなければならない。まだ脈は残っているのだから人工呼吸を丹念に続ければきっと助けられる。山本は額に汗を流しながら人工呼吸を続けた。佳子の胸の隆起が両手の掌に奇妙な感触を与えた。 やがて近所の医者が駆けつけカンフル注射を打ち終えたところへ救急車がやってきた。 「もう大丈夫です。人工呼吸が適切に行われたので、危ないところでしたが命はとりとめました。やがて意識も回復することでしょう。病院まで私がついて行きます」 医者はそう言い残すと慌ただしく救急車に乗り込んだ。 騒ぎを聞いて駆けつけた桑山が病室の枕元に立つと佳子はばつの悪そうな顔をしたが、表情には喜色が溢れている。 「ヨッちゃん、大変だったそうじゃあないか。それでも命か助かってよかったね。ヨッちゃんにもしものことがあったら、僕の人生に張りがなくなる」 桑山は佳子の顔を覗き込みながら形のよい唇をじっと眺めた。佳子の命を助けたという男の痕跡を捜し出そうとする目つきであった。 「御免なさい。ご心配かけちゃって。でももうすっかり良くなったのよ。明日は退院してもよいそうよ」 「山本という人は病院へきたのかい、どんな人か僕も会ってみたいね」 「脱サラの貸しおむつ屋さんよ。でも命の恩人ね。貸しお絞りをうちのお店へ入れたくて、最近時々来るのよ。でも変な人。商売の話は全然しないで世間話ばかり」 「ヨッちゃんに口移しの人工呼吸をしたんだって。憎い野郎だ」 「あら、だってあの場合仕方がないわよ。もし山本さんがあの時お店へ来ていらっしゃらなければ、今頃私はあの世へ行っていたかもしれないわ」 「でも口移しの人工呼吸なんてよく思いついたものだね」 「前に人工呼吸をしていれば助けられた人を知識がなかったばかりに手遅れで死なせてしまった苦い経験があるんですって」 「なるほど、それにしても何故、酸素欠乏なんかになってしまったんだい」「展覧会へ出す作品を書いていたのよ。寒いものだから部屋を締め切ってガスストーブを焚いていました。そのために部屋の酸素が不足したらしいの。何だか頭が痛いなあと思っているうちにすっーと気が遠くなってきて、気がついたときにはこのベッドの上に寝かされていたわ」 「危ないところだったね」 「そうよ。母が来てくれなかったら、そのまま死んでいたでしょうね」 「お母さんと山本という男は命の恩人というわけだ」 「あの時たまたま山本さんがお店に遊びにきていらっしゃらなかったら、病院へ運ばれる途中で駄目になっていたかもしれませんわね」 桑山は山本に対して妬ましさを覚えた。佳子の気持ちが山本に動きかけている。偶然のできごとであり、あの場合それがもっとも適切な処置であったとはいえ、佳子の唇を無断で奪った山本に対して佳子は感謝している。強力なライバルが出現した。まだ会ったことのない山本に対して桑山は敵意を感じた。桑山は山本に会ってどんな男か確かめてみようと思った。 この場合都合のよいことに、新聞記者という職業は桑山の意図をカムフラージュしてくれる。酸素欠乏事故の取材にかこつけることができる。 桑山は体内に闘志が漲ってくるのを感じながら病院を後にした。
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