山本は桑山という新聞記者の訪問を受けた。角寿司で佳子に人工呼吸を施して人命を救助したことについてそのときの状況を説明して欲しいというのである。
山本は死亡事件に至らなかったのだからできることなら記事にはして貰いたくなかった。 「あの場合部屋の状況を判断して酸素欠乏だということが判りましたので、何の躊躇いもなく口移しの人工呼吸をしていました。とにかく一刻も早く酸素を供給してあげなければという考えしかありませんでした。幸い佳子さんも元気を回復し大事に至らなかったのは何よりです。新聞に出さないで貰いたいのですが」 「よく咄嗟に人工呼吸が必要だということが判りましたね」 「過去に苦い経験があったからです」 「新聞に書かれると何か都合の悪いことでもあるのですか」 「別にそういうわけでもありませんが、今度のことが売名行為のように受け取られるのが困るんですよ。それにプライバシーに関することでもありますから」 「あなたの気持ちは尊重しましょう。この程度の事件ではニュースバリューがないので記事にしても没になるだけでしょう。私が小耳にはさんだところではあなたは、前にも酸素欠乏の人を助けようとして人工呼吸が間に合わなくて助けることができなかったという経験をお持ちだそうですね。よかったらそのことを話して戴けませんか」 「どうしてそんなことを聞きたいんですか。あのことは私にとっては触れて貰いたくない厭な思い出なんです。そのために転職まですることになったのですからね」 「ほうそのために転職。今のお仕事の前にはどちらかへお勤めだったのですか」
桑山はいつの間にか新聞記者の本性を表していることに気づいていない。「関東石油の工務課にいたんですよ」 「関東石油ですか。一流会社じゃあないですか」 「定修工事中に酸素欠乏で一人の作業員が死にましてね。気の毒にその作業員は今でも未だ身元が判らないで、遺族の手には渡っていないでしょう」
桑山の頭の中を光のようなものが通り抜けた。
「何ですって。それではあの引き取り手のない遺体の葬式。その時の工事責任者があなたでしたか。あの事件ならよく知っていますよ。私が取材に行ったんですから」 「えっ。それではあの時の記事を書いたのはあなたですか」 今度は山本が驚く番だった。 人間というものは過去に共通の体験を持っていると何故か親近感を持つものである。桑山と山本の関係が丁度それであった。二人の話題はいつの間にか松山一朗の身の上に移っていった。 桑山は山本の話を聞きながら、これはもう一度現地へ行ってフォローアップしてみると何か面白い記事が書けるのではないかと思った。 「ところで、山本さん。佳子さんの唇の感触はどうでしたか」 桑山は山本を試してみるつもりで軽く聞いた。 「何てことを言うんだ。生きるか死ぬかの境目にいる人間を前にしてそんな気持ちが起きると思うかい。不謹慎な言い方はやめてもらいたい」 山本が本気で怒ったのを知って桑山はこれは相当手強い相手が出現したと思った。
この事件があってから桑山は佳子との結婚のことを真剣に考えるようになった。競争相手が出現すると火に油を注ぐように恋心というものは火勢を強めるものである。
一方山本も佳子の酸素欠乏事件があって以来、角寿司へお絞りを納品するようになっていた。一日に一回は当然のこととして顔が出せるようになっていたのである。山本は角寿司へのお絞りの集配は自ら行うことにした。佳子に会うチャンスを自分だけの手に留保しておきたかったからである。それに事件以来父親の作造がすっかり山本を気に入ったらしく、密かに佳子の婿養子にと考えている様子が言葉の端々に窺えるのである。生まれは何処だとか何人兄弟だとか、好きな人がいるかとかそういう身元調査的な話題を好んで取り上げるのである。
山本は作造との付き合いの中で作造の長男で佳子の兄にあたる人が失踪し行方不明になっていることを知った。この話を聞かされた時、山本はふと今常泉寺で眠っているあの身元不明の遺骨は久のものではないかと考えてみたりした。山本は思いついて報国工業の沢村に電話してみた。
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