前潟都窪の日記

2005年11月06日(日) 息子からの便り

   息子からの便り               

「老人は、多年にわたり、社会の進展に寄与してきたものとして敬愛されかつ健全で安らかな生活を保証されるものとする」と老人福祉法の第二条には、老人福祉の基本理念が高らかにうたわれている。

 それにもかかわらず、寝たきり老人が一人寂しく、看取ってくれる身内もないままに、餓死していたとか、病気を苦にして80歳過ぎの老夫婦が、大金を残したまま心中したという気の毒なニュースが時々新聞やテレビで報道される。
 このような悲しいニュースを注意して見ていると、共通して言えることは老夫婦だけで、もしくは配偶者の一方を失って一人だけで寂しく生活していたという人達が多いことである。

 このような不幸な老人の中には、身寄りもなく、蓄えもなく、収入もなくしかも病身で、あるのは絶望だけという全くお気の毒な人達もいるが、中にはかなりの蓄えもあり、身内もあるという人達が含まれている。前者の場合の救済は国家の老人福祉政策の強力な展開を待たなければ、如何ともなしがたいが、問題は後者の場合である。
 ある程度の蓄えがあり、身内もありながら、死に急がなければならない程老人を孤独に追い込んだものは何か、ということを考えてみなければならない。
                                  
「お母さん、さっき山田の伯母さんのところへ遊びに行ってきましたが、とても喜んでおられましたよ。それに最近、顔の表情に安らぎが出てこられましたね」
「そうなのよ。つい先日も勉さんから、手紙が届いたとかで、伯母さんは大変喜んでおられましたよ。勉さんも、最近では、生活に多少ゆとりが出来たらしく、時々お小遣いを送ってくるようになったようよ。伯母さんは、勉さんから届いた手紙を大切に仕舞っておいて暇さえあれば、何度も読み返しては寂しさを慰めておられるのよ。お母さんもその姿を見るとつい目頭が熱くなるわ。勉さんが早く立ち直って、帰ってきてあげるのが、伯母さんには一番嬉しいことなのよ。充さんがあんな死に方をしたので、伯母さんも、充さんのことは忘れようとして随分苦しまれましたからね。幸い、幸代さんと一緒に暮らしておられるから、伯母さんも何とか今日まで耐えてくることができたと思うのよ」

 久し振りに寸暇を盗んで、田舎の両親の許へ帰省した私は、近くのアパートでひっそり暮らしている山田の伯母さんのお見舞いをしたのである。

 山田の伯母さんは、父の姉で今年86才になる。山田の伯母さんほど女として、妻として、人の子の母として、また人間として、世の中の辛酸を嘗め尽くして何度も絶望の底に突き落とされながら、なお一筋の望みに生を託して人生を生き抜き、今、静かに晩年を安らぎの中に明日をまちながら過ごしている人を私は身近に見たことがない。

 山田の伯母さんは農家の4人兄弟姉妹の長女として生まれ20才で造り酒屋の長男の許へ嫁入りした。夫との間には女児の幸代をもうけたが、夫の女道楽に泣かされ、姑に嫁いびりの限りをつくされた。それでも、根が善人の伯母は夫や姑の仕打ちに耐えて、嫁として妻としての勤めによく励んだ。幸代の誕生に2年遅れて夫が妾に男の子を生ませた。家と家が婚姻し、女の腹は借り物の時代であった。幸代が4才の時夫は病死し、男児に恵まれなかった伯母は幸代と一緒に婚家から離縁され親元へ返された。伯母の離縁と相前後して婚家では妾の生んだ男子を嫡男として入籍した。
 話し好きで世話好きの伯母も余程辛かった時代だったとみえ、当時のことは口をつぐんで語りたがらない。

 間もなく、農家の山田家へ後妻として、幸代を連れて再婚した。再婚先には幸代より2才上の先妻の子、充がいた。再婚先の夫は働き者で伯母を愛し幸代を充と分け隔てすることなく可愛がった。夫との間には男の子、勉を設けた。夫婦仲円満で3人の子供は仲良く生育した。伯母の人生で最も幸せな時期であった。

 充と幸代が長じて年頃になったとき、二人の義兄妹は結婚し、勉は商業学校へ進学した。勉は勉強好きで成績も良く、戦後の就職難の時代に大手の繊維会社へ就職出来て、青雲の志を抱き親元を離れて東京へ赴任した。

 充、幸代の若夫婦も伯父伯母に似て、よく働き、何不自由ない暮らし向きであったが、充、幸代夫婦の間に子供が生まれないのが、伯父伯母夫婦の唯一の気掛かりであった。

 伯父・伯母、充・幸代の老若二夫婦が幸せな生活を送っていた頃、中学生であった私は、松茸狩りや兎捕り、魚釣り、夏祭りに招待され楽しい思い出を幾つも残している。

 私が大学生になって親許を離れ、伯父伯母とも疎遠になった頃、勉が東京に土地を買って自家を新築したので、伯父伯母が山林を売って援助したという話しを聞いた。やがて、会社を辞めて勉が独立し、繊維を扱う商事会社を設立して成功しているという噂も聞いた。それと相前後して充の酒量が増え時々酒乱を起こして伯父伯母を困らせているという話しが母の便りで耳に入った。

 私が東京に就職して結婚した後、海外赴任して田舎へも帰れなくなった頃伯母の不幸が始まった。勉が商売を大きくし過ぎて、折からの不況に災いされ、莫大な負債を抱えて倒産したのである。借金のかたに東京の自宅は人手に渡り、伯父伯母も連帯保証人として田舎の山林、田畑の大半を失ってしまった。悪い時に悪いことは重なるもので伯母が脳溢血で倒れ、半身不随になってしまった。

 勉は伯父伯母のお蔭で負債は完済したものの、妻子には逃げられ親許へも顔を出せず行方を隠してしまった。充の酒量は俄に増え酒乱をしばしば起こすようになっていた。それでも伯父が健在のうちは、家族に危害を加えるよしなことはなかったが、伯父が勉の行方を案じながら不幸な晩年を終えてから、充が狂った。
「お前の生んだ子が俺達を食い物にした。勉を何処へ隠した。勉の代わりにお前を殺してやる」
 充は右半身が不自由な伯母を刃物を持って追い回すようになってしまったのである。朝から飲んで歩き、僅かに残っていた山林、田畑を売り飛ばし、酒浸りの毎日に体もいつしか蝕まれていった。

 私の父が叔父として何度か充を戒めたが効き目はなく、充が酒乱を起こす度に生命の危険に晒される伯母と幸代を見かねて、父が引き取り近所のアパートへ住まわせることになった。同時に充と幸代は離婚し、伯母親子は山田の家を捨てた。それから間もなく充は心筋梗塞で看取る者もなく自宅でひっそり死んでいるのが、死後5日程経って発見された。

 伯母と幸代親子が私の実家の近くへ引っ越ししてきてから1年ほど経って行方の判らなかった勉から再起を目指し、小さな商売を始めたという便りが届いた。勉の消息が知れてから伯母の顔に明るさが戻った。
 今、伯母は幸代がレストランへ勤めて得る収入で細々と暮らしながら、勉がきっと元気な姿を見せるであろうと信じている。

 外国勤務を終えて帰国してからは私も実家へ子供達を連れて帰省する度に伯母を見舞うことにしているが、最近伯母の顔に現れる表情は、不幸な生涯を送ってきた者とは思えない安らぎに満ちている。それは、きっと息子の勉が明日には帰ってくると明日の一日を期待して待つ気持ちがそうさせているのではなかろうかと私は観察している。

無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加