2005年11月10日(木) |
仮説 小野小町は男であった3 |
小野氷見の娘大町姫が弘仁元年の大嘗祭の五節舞姫に選任され天皇の寵愛を受けて男子を出産したのは翌弘仁二年九月のことであった。折りしも、薬子の変が発生し世情が騒然としているときであった。年初来体調をこわして病気がちであった今上天皇に対し病気が快癒した平城上皇が寵愛する尚侍(ないしのかみ)藤原薬子とその兄藤原仲成らに唆されて重祚を目論見、東国に赴き挙兵しようとして失敗した事件である。この事件で小野岑守は近江国固関使として鎮撫にあたった。薬子は自殺し平城上皇は頭を丸めて出家し失意のうちに奈良旧京の宮殿で十四年の余生を送ることになるのである。
小野氷見の娘大町は、密かに男兒を出産したが、女児として育てることにした。大町がそのように決意したのは次のような理由からである。今上天皇の後宮に住む皇后、后、夫人嬪等が生んだ皇子、皇女の数は五十人以上にものぼり生母の身分が高いか低いかでその生涯は決まっていた。男であれば皇位継承権はあるが、母が皇后でなければ、まず皇位につくことはできない。皇后に男子のない場合、后、夫人、嬪の生んだ男子に皇位継承権が廻ってくることもあるが、今までの歴史ではなまじ皇位継承権を持つが故に非業の死を遂げざるを得なかった例は枚挙に暇がないくらいである。その皇子が優秀であればあるほど政争の具として利用され命を全うする事ができない。例えば、遠くには山背大兄皇子、有間皇子、大津皇子、近くには早良皇太子、伊予親王等がある。その点女子であれば、母親の身分が高ければ高い程結婚の相手が少なくなるという問題はあっても、皇位継承権を巡って命をとられるということはない。
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