京のいけず日記

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2004年09月28日(火) 雨の焼骨灰供養 

合掌する歳三さん母が亡くなって3ヶ月が経つ。

朝から冷たい雨が降る中、
永観堂は禅林寺で行われた「斎場秋季焼骨灰供養法要」へ行った。

斎場で拾いきれなかった焼骨灰の合同供養だ…。

法要が行われた永観堂は、みかえり阿弥陀如来像と、もみじで有名な寺院。昔、観光で行ったことはあるが、まさかこういう法要でお参りするとは思わなかった。

←母が亡くなった頃に描いた落書き



広い本堂の板敷き。喪服に沈痛な面持ちで、一人ぽつんと離れて座っている人。子どもを連れた家族。斜め前に座った白髪の婦人は、皺に刻まれた手をずっと合わせていた。

みんな、この彼岸までの間に、大切な人を亡くした人ばかり…。
こんなにも、たくさんの人が亡くなっていた現実に、あらためて悲しくなる。

広くて薄暗い本堂。板敷きの冷たい感触。木の匂い。堂内から眺めた木々の緑は、雨に濡れ、艶やかで、淡い絵のようにきれいだ。

湿気った雨の匂いに混じって、線香の匂いがする。時おり聞こえる幼子のむずがる声。やがて法話が始まり、導師や、大勢の衆僧の入堂、そして、読経となった。

本堂に響く読経の声。魅了される。手を合わせ、静かに、心体をゆだねていると、あらゆる意志が無抵抗になっていくような気がする。

トランス。一種のショーなのだ。

宗教心を持たない私はバチあたりなことを考える。それでもここにきて慰められたことは確か。わずかの間、母と会話し、生き死にを考える…。

もし私が死んだとして、誰も骨を拾ってくれる人がいなくても…。私は亡くなった多くの人達と一緒にいて、こうして、坊さま達が一心に祈ってくれる。

…何となくそんなことを思って、ちょっと安心した。

ちゃんと家族もいるし。入るべきお墓もある。本人にはまったく信心がないのに、親の代からありがたいお経を詠んでくれるお寺もある。

よっぽど、しがらみを捨てることの方が難しい。それなのに、いまだにこんなことを考えてしまう。ひとりぼっちでいく自分が愉快なのだ。天邪鬼。この年になっても直んないや。


法話、閉式の辞にあったお話、大半は早や記憶にないのだけど…。

心を失うと書いて「忙」と書く。
忙しい毎日。生きているんだからしょうがない。

だからこそ。時には、心を解き放ち、亡くなった人を偲んだり、自然や命を思いやったり、生死について考えたり、そんな時間を持ちましょう…。

みたいな話…だったかいな?? おかあちゃん? え。ちゃうか?


法要が終わると、いつのまにか雨もあがっていた。その足でお墓のある菩提寺に行った。雨上がり。ジリジリ気温も上がってムシ暑い。一気に忙しい現実に引き戻される。

濡れねずみになったけれど…、朝の雨も良かったな。

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日曜日に受けた検定受かったよん V!
仕事上必要な資格とはいえ、ええ加減、追いかけっこはしんどいよー。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、馬鹿が捨てられない、この悲しさ。

さて。いつまで続けられるかな? このかけっこ。 …へろへろ。


Sako