Rollin' Age

2004年06月23日(水)
 夢のまた夢のまた夢

 まだ学生だった頃、友人に「あんた、夢ってある?」とか尋ねられ、「夢を見つけることが夢だ」などと禅問答のような答えを返した飲み会の席上。それから数年経ち、現在新聞記者として働いているわけですが、これは「夢」だったかと、暫く自問自答。すると答えは、「否」となるのです。自問自答するまでもない。そもそも夢じゃないのは分かっている。

 就職活動真っ盛りの頃は、「これが俺の夢なんだ」と無理やりポジティブシンキングに持っていったような傾向も見受けられたことだろうけれど、それでも基本的に、夢とか志とかそういうのではなくて、「いろいろある選択肢の中から最も好ましいと思われる仕事を選んだ」という範疇を出ない。

 ずるずると秋の終わりが見えかけた頃まで長引いた就活。最後の最後で手にした二つの内定。第一志望だったけれど二度落とされた今の会社。たまたま知ったけれど自分に向いていると心底思ったもう一つの会社。どちらを選んでよいのか悩んだ時、もっとも影響を受けたのは、大学の恩師と、父の言葉でした。

 「君の当初の志に従えばいいじゃないか」というのは恩師の言葉。「お前の志は、いったいなんだったんだ」と泣きながら問い質した父。志。あの頃、いや今も抱いているソレは、「食料やエネルギーが、まるで無尽蔵のように手に入るこの社会は間違っている。生産の現場を知りたい。今俺が手にしている、なんでもいい、このオニギリは、どのように作られているのか。この電気は、いつまで持つのか。その生産・流通・消費それぞれの現場の実態を知りたい。そして、それぞれの現場で、先を見据えて行動している人々の姿を追い、広く世の中に訴えかけたい」という、志。

 その想いに、嘘はない。しかし、アタマの中で考えた志だった。

 現実に、その「志」を叶えることのできる場所にいて、だけどココロは少しも動かない。なるほど、興味はある、興味はあるよ。それでも、その興味を増幅させて、頑張ってみようとか、一生懸命にしようとか、「俺はこれをやるために生きてきた」というような実感は一片も無い。とにかくサラリーマンとしての責務に追われ、疲れきっていくだけの日々、それが現実、と。

 同期が入社に際して社内報に寄せた文章。誰だったか、「自分を成長させる新たな舞台を求めてこの仕事を選びました」とかそういうようなことを書いていた。あぁ、この人と同じなんだ。「社会の木鐸として」だとか、「世の中のう最前線を追いたい」だとか、「志」? それよりも、本音で言うなら、「ナニカが変わることを期待して」今の仕事を選んだ。そうなる。自分が変わるんじゃないか、ナニカを見つけられるんじゃないか、それこそが、今の仕事に抱いたイメージ。選び取った理由。つまり、いわゆる「自分探し」の域を出ないわけだ。だから、二つの内定を前にして悩んでいた。「志」がホンモノならば、悩む余地などないだろう?

 とまぁ、ここまでは以前から考えていたし、理解していたことだ。そして現在、仕事に就いてからも、答えは出ていない。半年、一年と経てば、仕事にもなれそこそこ働けるようにはなるだろう。だけど、それが楽しいものなのか、心から楽しいものなのかは、分からない。というか、そうはならない。

 社会人にもなって、何を甘いことを言うのかなどと思われる方もいるだろう。「夢」だなんて、「志」だなんて、そんなものよりも、まず日銭を稼いで、日々しっかりやって、生きていくんだ皆。
 
 だけど、俺は。

 先の話に戻る。「どこかに自分の生きる意味があるんだ」と信じている。そして今の仕事は、それを見つける手段だと、本音のところでは思っていた。あわよくば、この仕事がそれと重なれば良い、とも。

 働いて金を稼いで良い生活をして。良い服を着て美味しいものを食べて立派な家に住んで。素敵な家庭を築いて、仕事を引退して、旅行に出かけちゃったりして。楽しくレベルの高い生活を過ごして、死んでいく。そんな人生、望んでいない。どんなもんでもいい。俺だから、俺にしか、俺のための、そんな課題が、この世のどこかに潜んでる。そう信じて、生きている。

 そんなものないよと言われたとしても。俺は「ある」と信じちまったんだから、もうどうしようもないだろう。「この生は、どこか欠けている」、そう気付いちまったんだから、探すしかないだろう。気付いたのか、思い込んだのか、それはもう、神の存在を議論するようなものだ。天国や地獄があるかという問いと同じだ。魂は21グラムなのか。死んだ時に答えは出るさ。


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