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2023年02月25日(土) ■
小泉明郎『火を運ぶプロメテウス』

小泉明郎『火を運ぶプロメテウス』@SHIBAURA HOUSE


うふふ、火を託されちゃったのよ。荷が重いとかいっちゃいけないわねえ……。

シアターコモンズ、今年のテーマは「Rebooting Touch 触覚の再起動」。作品紹介によると「VR演劇『縛られたプロメテウス』(2019)、VR彫刻『解放されたプロメテウス』(2021)に続くプロメテウス3部作の最終章『火を運ぶプロメテウス』」とありました。いきなり最終章からか……と迷ったものの、興味があったので参加することに。勿論1、2作目を体験していれば感じることも増えたでしょうが、今作だけでも見応え(体験応え?)はありました。

会場へ着き受付を済ませ、荷物や上着をクロークに預け入場すると、白いテントが吊るされていました。妹島和世設計のSHIBAURA HOUSEはガラス張り。映える〜。しかし景色を堪能している時間はない。テントの中に入り、クッションに座り、VR機器の説明を受けます。ゴーグルとヘッドフォンを装着してもらい、テントが閉じられ、開演を待ちます。

その後30分暗闇のなかで過ごすことに。「来場したらそれぞれ開演だと思っていたけど、全員揃ってからなのかな?」「来場時間は30分間のいつでもよかったんじゃなかったっけ?」「まだかな〜」とぼんやり待っていると「終了です」とヘッドフォンを外された。ええ〜!!!

……ずっと指示待ちしてしまう自分の耐性に呆れる。災害時「ここに待機していてください」っていわれたら、きっとそのままずっと待ってて逃げ遅れて死ぬ。と、いつも思う。あれよ、『タワーリング・インフェルノ』で自分勝手に動いた大人がじゃんじゃん死んだから、その刷り込みがあるのよ……。

スタッフの方に「何も起こらなかったんですけど……」といって驚かれる(笑)。ごめん早くいえばよかった! 初期画面はちゃんと映ってたのに! 機材トラブルだったのかな。テントを移動し、機材も交換し「今度同じ状態だったらすぐ声掛けます!」と再トライ。お手数おかけしました。

目の前に手が現れる。こどもの声が聴こえてくる。暗闇に浮かぶ手と、自分の手の動きをシンクロさせる。やがて風景は暗闇から森へと移り、そこには複数人の人間が立っている。人間たちは地面に伏し、やがて消えていく。こどもの声はあたらしいヒューマンの到来と、争いの減少を告げる。人間たちは土に還っていく。再び手が現れる。その掌上には炎が揺らぐ。映像と自分の手を重ね、炎を受けとる……。

いや〜、こどもの声で「争いは減っていきます」てなこといわれるとごめんよおおお〜ってなるわ。大人たちは土に還って自然に貢献したいと思います。プロメテウスといえばパンドラの箱。さて、ここに希望はあるだろうか? あってくれ〜、明るい未来になれ〜! との思いを強くする。土に還れるのはむしろうれしい。森と同化するようで気持ちよかった。冒頭のツイートにも書いたとおり、自分の手を動かすところよりも「映像に触られた」という感覚が強く、これは新しい体験だった。そう感じるように自分の脳が操作されたともいえる。おお〜私チョロい〜。そこから今回のテーマ「触覚の再起動」を考えると、触覚そのものというより、感覚を司る脳が再起動された、という印象が強かった。

途中から視座が傾いた(狭まった?)のだが、これは私だけだったのだろうか。森のシーン辺りから映像が左に寄っていき、右を向いても暗闇だけになった。終盤はずっと左を向きっぱなし。終演後の「ヘッドフォンを外してください」という説明画像も左を向かないと見えなかった。うーむ、なかなか難しい。

クッションがYogiboというか無印の人をダメにするアレな素材だったので、ゴーグルを外して急に視界が開けたのと、足腰が弱っていたのとで(…)なかなか起き上がれない。這うように立ち上がる。夢うつつで会場をあとにしました。

ペニノ『ダークマスター VR』、アピチャッポン・ウィーラセタクン『太陽との対話(VR)』ときて今回の『火を運ぶプロメテウス』でVRは3回目。だいぶ慣れてきたけど、やはり事前に酔い止めを服用しといたほうがいいようだ(乗り物酔いするので)。今回はゴーグル下に隙間があったので閉塞感はなかった(没入は出来る)。

機材の重さや映像の精度が酔いにも影響する。自分の体調もあるかもしれないが、今回はゴーグルが重く感じた。そして演出効果なのかもしれないが(『ダークマスター』もそうだったが)、映像のブレというか残像が多く、プログラムが30分以上のものだったら薬を服んでいても酔っていたかもしれない。過去3作品のなかでは『太陽との対話』がいちばん身体に馴染み(歩きまわれたところも体験としては大きい)、かつ現実との境目がつかなくなる感覚を強く味わえた。来週もゴーグル装着の作品鑑賞を予定しているので体調を整えておきたい。



2023年02月23日(木) ■
『エゴイスト』

『エゴイスト』@テアトル新宿


ごめん名前間違えた! 龍一じゃなくて龍太です! ホントごめんなさい!!!

高山真さんの自伝的小説を映画化した今作。原作至上主義ではないのだが、先に読んでいたため気になってしまったところがちょっとだけ。というのも、その原作で感銘を受けたのが、「生活とお金」と「自立すること」についてだったのだ。「自立すること」の展開が変わっていたことに驚いた。しかし同時に、原作からは読みとりきれなかったところが映像として立ち上がっていることを目の当たりにし、心から「この映画を観てよかった」と思った。映像のなかで、登場人物たちが現在に生きていた。そうなると、変更された箇所にも納得出来た。

以下ネタバレしつつ、それについて書いていく。未見の方はご注意を。

映画化を知り、原作を手にとった。読了時点で「映画ではどう描かれるかな」と楽しみになったところが以下の4点。

1. 連絡を絶った龍太を浩輔が探し当てる迄の描写
2. 龍太の死後、浩輔をケアした友人夫妻の描写
3. 龍太の母、妙子の「女優が十八番としている舞台の長台詞」
4. 妙子が浩輔からのお金をどう扱うか

これらが映画化にあたってどうなっていたか。

1. 原作の龍太は去る理由を明かさない。浩輔の主観でものごとが進む原作とは違い、第三者の視点がある映像では風俗に行き当たる迄の「推理」を観客に伝えづらい。映画の龍太は「売り」をやっていると自分から告白したため、「推理」の時間で展開を停滞させることがない。浩輔が風俗サイトを虱潰しに探し龍太を見つける時間経過は、目に見えて上がっていく浩輔の疲労度によって表現されていた。巧い構成だと思った

2. カットされていた。浩輔のダメージを物語る印象的なエピソードだったが、そこは通夜に出た浩輔の狼狽、憔悴ぶりで担保された。担保っていい方も何だが。今作は「クィア映画」として撮られているので、シスヘテの夫妻を出すことでストーリーが拡がりすぎるのを防いだのかもしれない。あーでも、浩輔を“保護”するあの夫妻が実体化したところ、ちょっと観たかったな

3. これは素晴らしかった。エチュードの成果か「台詞」と感じさせない。妙子を演じるのが、演技経験が決して多いとはいえない阿川佐和子さんなのでちょっと不安だったが、鈴木亮平さんの相槌と受け答えの効果もあり、見事会話に組み込まれた形での「女優が十八番としている舞台の長台詞」になっていた

えっ、と思ったのは4.。原作では妙子は浩輔からのお金をしばらくは受けとっていたが、やがて援助を断る。その後、実は妙子は生活保護を申請しており、無事受給が決まったことが明かされる。この「自立する」という妙子の強さ、そして社会には受け皿があるということを伝えてくれる箇所がカットされていたのだ。福祉を頼ることに後ろめたさを感じなくていいというメッセージが含まれるこの箇所はなくさないでほしかった。龍太が妙子を連れて行ったフルーツ狩りのバスツアーのエピソードや、妙子と友人たちとの交流もカットされていた。映画の龍太と妙子は社会から切り離されているように見えた。

しかしこれらは2. とも繋がっているようにも思う。約2時間という映画で物語が散漫にならないようにするための変更なのだろう。龍太と妙子のだいじな思い出に関わるフルーツは、浩輔の母の仏壇に供えられているさくらんぼや、浩輔が手にとる梨に姿を変えて映画に存在している。ここにつくり手の愛を見る。

とダラダラ書いているが、何より感動したのは、やはり浩輔、龍太、妙子が映像のなかで生きていたことに他ならない。前述のとおり原作は浩輔の主観で、龍太は天然の天使のような無垢の存在として描かれている。しかし今作の龍太には、ところどころに「揺れ」が感じられた。小銭をぶちまけたとき、寿司屋の店先を覗くとき、彼は浩輔がパトロンになってくれればいいなと思っているのではないか──。原作発表時には今程問題にされていなかった(勿論ずっと問題ではあるが、今のように表立って指摘されず、美談として片付けられがちだった)ヤングケアラーとして悩む龍太の姿が実体化されていた。“客”に会う前、ガムを噛んでいるという描写もリアルだった。

それでいて彼は、浩輔から受けとった折詰が入った紙袋をぶん回すようにして軽やかに走る。屈託のない笑顔を浩輔に向ける。後述のサムソン高橋さんのテキストにあるように、「100%のピュアも、100%の打算も無かった。いつもその間で揺れ動いていた」。宮沢氷魚さん演じる龍太は、そんな迷える美しい青年だった。

そして鈴木さん演じる浩輔。素晴らしいのひとことに尽きる。「ついていい嘘」の産物である、弛んだ下腹。疲労で二重になった瞼。身体の造形、所作のひとつひとつに説得力がある。広い部屋でひとり、妙子に持たされた手づくりの惣菜を食べる。外見に気を配ることを忘れ、“鎧”に綻びが見え始める。しかし病室で妙子に「大事な息子なの」といわれた浩輔は、洗面所に行って眉を引くのだ。そのときの表情。目の力。忘れられない。原作の主観では語られなかった浩輔のプライドが表出した瞬間だった。

監督である松永大司さん(『ピュ〜ぴる』の監督だったか!)は、台本をカッチリ決めず、エチュードとリハーサルを重ね演者の自然な会話を引き出す演出法をとっているそうだ。浩輔の友人たちは、高山さんの実際の友人や、ゲイコミュニティから起用されている。「婚姻届をふたりで書いた」「今の日本じゃゲイは結婚出来ない(届を出せない)から壁に飾った」というやりとりにハッとさせられる。呑み屋やカフェで交わされる他愛ない会話のなかに、数々の放っておかれた問題を見る。

テアトル新宿はカスタムメイドのスピーカーシステムodessaを導入している映画館。音がとても良かった。導入のこもった音のダンストラック、恋人たちのキスの音、妙子がおむすびをにぎる音。そしてエンディング、世武裕子の音楽。どれも愛おしく響いた。新宿二丁目に程近いこの劇場を出て、映画に出てきた末廣亭や池林房周辺をぶらりと散歩する。浅田マコト名義で出版された『エゴイスト』の初版は2010年。文中には「龍太が死んで十ヶ月が経った二〇〇八年の夏」とある。龍太の母親も、程なくして亡くなったのだろう。そして、高山さんは2020年に亡くなっている。この物語で愛を育んだ3人は、もうここにはいない。

2023年の今なら、彼らはもう少しは生きやすかっただろうか? 「ごめんなさい」と後ろめたさを持つことなく生きられただろうか? 少しずつ社会は変わっているが……そんなことを考え乍ら、愛すべきエゴイストたちの痕跡を探すように歩いた。

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昨今の物価高を鑑みたのかと思った(笑)

・鈴木亮平&宮沢氷魚、本来なら完璧な見た目のふたりだが/サムソン高橋が見た映画『エゴイスト』┃女子SPA!
サムソンさんの『ホモ無職、家を買う』(実用書としてもオススメ)は発売当初読んでおり、意識的に「ホモ」という言葉を使っているなあ、その裏には「第三者がそう呼ぶのは許さねえ」という厳しさを感じるなあと思っていた。次のテキストを読むことで、それは間違った認識だと気付かされた

・サムソン高橋 毒書架 002~ゲイ漫画の巨匠 田亀源五郎「弟の夫」を読む┃Letibee Life

私たちだって、ゲイという閉じられた世界の中で多数派を気取り逆に少数派を軽んじたりということは、日常的にあるのである。
(中略)
「土台を作らなきゃ、それを批判なんてできないでしょ!」


このテキストが書かれたのは2016年。7年経ち、『エゴイスト』という映画が公開されるところ迄来た


なので北丸雄二さんとのこのやりとりは笑った。こういうやりとりも「土台」のひとつに思える

最後にちょっと思い出したこと。2014年に公開された『TOKYO TRIBE/トーキョー・トライブ』のBlu-rayオーディオコメンタリーに、鈴木さん、清野菜名さん、監督(まああのひとですよ)の鼎談が収録されているのだが、鈴木さんがとある女優さんを脱がすシーンで、「女優さんに負担をかけないよう一発でOKを出そうと臨みました」というようなことを発言していた。それに対して監督は「ヘッ」てバカにしたような感じの受け答えをしていた。
鈴木さんは当時から映画の現場に問題意識を持っていたのだろう。今回も取材をとても沢山受けているし、少しずつでも業界の、社会の意識を変えていこうという姿勢が感じられる。
ちなみにこのコメンタリー、鈴木さんと清野さんのアクションについて、演技についての熱い話が聴けてとてもよいです。監督のことはおいといて

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(20230403追記)
・映画『エゴイスト』の原作編集者が初めて語る誕生秘話と鈴木亮平さん、宮沢氷魚さんのこと┃Domani

私たちが封印していたことを、彼らはなぜ知っているんだろう? 自伝をベースにした小説が、映像によってより「実話」に近づいている。
主人公のモノローグで繊細にその心情を描いた原作と、多くを語らず彼らの日々を生々しく描いた映画、それぞれを往復して答え合わせをする読者・観客の方がこんなにも多い作品も珍しい。


原作の編集者でもあり、高山さんの友人でもある下河辺さやこさん(『それって!?実際どうなの課』いつも楽しく拝見してます!)による記事

・【私論】高山真と映画『エゴイスト』┃成田全(ナリタタモツ)┃note

学生時代から30年来の友人であった高山真について、少し書き残しておこうと思う。

有料ですが、原作と映画のその後、そして高山さんのことをより深く知ることが出来る貴重な記事。
前述した「浩輔をケアした友人夫妻」について知ることが出来てよかった



2023年02月18日(土) ■
『笑の大学』

『笑の大学』@PARCO劇場


初演、再演の演出は山田和也だったので、三谷幸喜が演出するヴァージョンは初めて観る。他言語で上演されたもの、映画は未見。韓国語上演の初演は劇作家をファン・ジョンミン、検閲官をソン・ヨンチャンが演じたんだよなあ。観てみたかった。三谷さんがいっている通り劇作家は年齢が重要なキーになるので、今後ジョンミンさんがこの作品に出演することになったとしたら、劇作家ではなく検閲官役になるだろう。それはそれで観てみたい。

序盤、内野聖陽の台詞まわしがあまりにも西村雅彦と似ていてギョッとする。寄せたのか、役柄上そうなるのかどちらだろう。自分で喋ってみればわかるが(かなり独特ないいまわしなので、当時身内で真似したのだ・笑)ああいう口調で──終始不機嫌に、苦虫を噛み潰したように──滑舌よく話すのは結構難しいのだ。ところがこれがクリアに聴こえる。やはり巧い。何故かいちばん憶えている台詞(ホント何故)、「中で暴れて大騒ぎ」もあの声音で聴けてうれしかった。

内野さんと瀬戸さんは初共演。敵対しているともいえる立場の検閲官と劇作家が、いつのまにか協力して「笑えるホン」を書くようになる。内野さんいうところの“瀬戸康史くんとのセッション”はそれはもう見事で、“対話”を存分に堪能する。ひたすら笑い、終盤はひたすら聴き入る。

そんななか、出ずっぱりのふたりが場(=日)が変わるタイミングでそれぞれひとりになるシーンがある。初対面の検閲官を待つ劇作家、劇団の仲間たちからある仕打ちを受けたあとの劇作家。今川焼の包みをだいじそうに触れる検閲官、ホンの問題箇所を読みなおし、つい笑ってしまう検閲官。対話以外のところで、それぞれの心の動きを表現する。そのちょっとした仕草や表情が素晴らしく、次第にふたりは会うのが楽しみになっているように見えてくる。劇作家は「どんなに制限されても面白くしてやる」と思い、検閲官は「面白い箇所を指摘してやる」と思っている。明日はもっと面白くなる。はやく明日が来ないかな。ふたりがそう思っているのではとすら感じるようになってくる。だからこそ、終盤の展開は苦い。

笑いの才能があるのではとすら思われた検閲官が、あることをきっかけに権力者としての力を振りかざす。笑わせることばかり考えていると思われた劇作家が鉄の意志を見せる。そして驚くことに、検閲官はその立場を利用して劇作家を救おうとすらする。しかし、それは“間に合わない”。

喜劇作家と検閲官は解りあえないかもしれないが、それでも、という瞬間がある。「海難事故で漂流の末ロシアに流れ着いたひとたちが、笑うことで生きる気力を取り戻した」話をする劇作家(このエピソード、『月光露針路日本 風雲児たち』を観たあとだとハッとする。初演もこうだったっけ?)。「笑うことなど考えなくていいから、とにかく生き延びろ」という検閲官。全く正反対のことをいっているのに、行き着く先は同じことだ。死んではいけない、生き延びろ。

今が戦前であるというのはタモリではなく菊地成孔からの受け売りだ。その思いは日に日に強くなる。検閲するのは“お上”だけではない。市井のひとたちが互いを監視し、個人の言葉など打ち消して全体主義へと向かっていく。「おくにのために」尽くすことが、当然のことのように語られ始める。笑っている場合じゃない、不謹慎だ、こんなご時世だぞ。そうした空気は確実に拡がっている。“間に合わな”くなる前に、私たちはどうすればいいのか。ひとりひとり想像しなければならない。

生きることに笑いは必要ないというひとがいることは知っている。しかし、私は笑うことで何かを変えられるかもしれないという可能性に賭け続ける。喜劇作家・三谷幸喜の決意表明はずっと変わらない。その矜持を代弁するかのように、瀬戸康史は強い声と居ずまいで喜劇作家を演じる。比較的後方の席から観たのだが、彼の瞳に照明が反射し、キラリと光る瞬間があった。気のせいかもしれない。しかしそれ程瀬戸さんの目の力が強かった、と思うことは出来る。信じることが出来る想像力を、その想像力こそが生きる活力になるのだと、この舞台は伝えてくれる。

『国民の映画』との共通点、相違点を考える。国威発揚に利用される文化。集団の怖さ、権力の恐ろしさ、それでも流されなかったひと、そして命を落とすひと。『国民の映画』では登場人物たちのその後が語られるが、『笑の大学』ではそれがない。『国民〜』に登場した実在の人物たちとは違い、『笑〜』のふたりは歴史にその名が残っていない。しかし、検閲官にも劇作家にも、向坂睦男と椿一という名前がある。彼らはどこかの誰かなのだ。

彼らのその後が語られないことに希望を見たい。戦争が終わり、劇作家は生還する。検閲官は罪に問われるだろうが、それでもなんとか生き延びる。いつかふたりが再会し、共に喜劇を楽しむことがあれば……。そんな想像も可能なのだ。それがどんなに儚い願いだとしても。

いつかまた、この作品が上演されることがあったら。“新しい戦後”ではない“戦後”のまま、その気持ちをもって観ることが出来るだろうか。そうであってほしい。

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・HISTORY of “WARAI NO DAIGAKU”┃PARCO STAGE BLOG
こちらの画像にあるけれど、初演の鳥小屋は極めてオーソドックスなもの。今回の鳥小屋は折りたたみ出来るポータブル仕様、結構インパクトあった。格好いい(笑)。
先述の「劇作家は年齢が重要なキー」、思えば他の国ではどういう風に扱われているのだろう。特に韓国は時代が時代なだけにどちらの軍にとられる設定になっているのか……自国にしても日本にしてもつらい



2023年02月15日(水) ■
小林建樹と高橋徹也、と菊地成孔の話

あれだけ書いてまだあるのか。あるんですね……。

先日バート・バカラックが亡くなったとき「そういえば小林さんがラジオで『Alfie』弾いてたなあ」と聴き返していたのです。

・小林建樹・ムーンシャインキャッチャー”R" 第16回”Alfie””枯葉””星に願いを”(2022/11/16)


この回でキース・ジャレットが演奏する「枯葉」についても言及していたんですね。原曲の半音上のコードを弾いている。こんなのよく思いつくなあ、トリオでのライヴ演奏で、ベースもそれに合わせてる。即興だったんじゃないだろうか、咄嗟のことなのになんで合わせられるの? そんなんある!? といったら「キース・ジャレットのトリオやったらあるやろ」といわれた。「いや、ないやろ」「いや、ある」。「ない」といったのは僕だけ、「ある」といったのはふたり。2対1で言い負かされた感じになったんだけど、という話。コードの名称をいうのではなく実演しているので、専門知識がない人間にはわかりやすく有難い。キース・ジャレット・トリオはキース(pf)、ゲイリー・ピーコック(b)、ジャック・ディジョネット(drs)という編成で、動画も沢山上がっているので聴いてみると面白いです。

そこから思い出したのがこれ。

・大恐慌へのラジオデイズ 第18回「続・スタジオミュージシャン」 ビュロー菊地チャンネル(2021/01/28)


有料ですが、多分単品でも買えます(月額なので、一ヶ月だけ入会するとか)。これで菊地さんが高橋徹也の「ナイトクラブ」と「チャイナ・カフェ」をレコーディングしたときの話をしているんですね。かいつまんで書くと、

・高橋さんの音楽はジャンルミュージックにお手本がなく、コード進行とかもめちゃくちゃトゥイステッドしていた
・最初に「ナイトクラブ」のブラスなしデモとコード譜もらって聴いたとき、おっうおわ〜と思った。お゛うおわあ゛〜出てきた出てきたこういうのん、って
・そこで、ギル・エヴァンスの『プレイズ・オブ・ジミ・ヘンドリックス』(The Gil Evans Orchestra Plays the Music of Jimi Hendrix)、『フラミンゴの飛翔』(Where Flamingos Fly)、マンデイナイト・オーケストラの手法でブラスアレンジをした


・「チャイナ・カフェ」のフリージャズアプローチは、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ、ブリジット・フォンテーヌの『ラジオのように』
・サックスソロはいろんなアプローチをしたけど納得されなくて、軽く行き詰まったので「あのー。試しにキー変えてやってみましょうか。間違いのサンプリングみたいな感じで、元に戻んないやつ」といってキーを変えて吹いた。「やっぱこれじゃダメっすかねえ調子っぱずれですかねえハッハッハ」っていったらそれが採用になった


で、思い出したのが先日読んだ高橋さんの楽曲アナライズ。


(「ナイトクラブ」サビの)長3度上昇でグルグル転調していく展開、これはJohn Coltrane「Giant Steps」で使われたことで有名なColtrane changes(の難しい方)である。ポップスにおいてついに実用化されたのだ。ジャズに明るい友人が居てその人から教えてもらったのか、当時狂うあまり自力で思いついたのか。
(「チャイナ・カフェ」は)アウトロのサックスソロでキーが半音上昇していた。

引用//・コード進行で見る高橋徹也┃古い土地

(「ナイトクラブ」の)Coltrane changesをどういう経緯で知ったんだろうか? まさか自力で?
引用//・【楽曲解説】高橋徹也 - 『夜に生きるもの』(コード進行で見る高橋徹也�◆萌�古い土地


菊地さんの証言によると、「ナイトクラブ」の所謂“コルトレーン・チェンジ”なコード進行は高橋さんご自身が書いたものということになる。やはり自力か。「チャイナ・カフェ」のキーが半音上昇しているサックスソロ含め、ジャズのアプローチとして「わかるひとにはピンとくる」アレンジを持ってきたのは菊地さんの貢献によるものですね。しかしその、「半音上げた」ソロが出る迄OKを出さなかったのは高橋さんなのです。おおう。

ちなみに小林さんは以前『アフロ・ディズニー』の感想をdiaryに書かれていた(度重なるサイトリニューアルで過去ログが消えてしまっているが……)。高橋さんも小林さんも、誰かに教えてもらったというより、膨大な音源を聴いていく過程で、独自の嗅覚をもってそれぞれ辿り着いている印象がある。

菊地さん曰く「ジャンルミュージックにお手本がな」い。過去の偉人たちの功績に彼らにしか出来ない手法でアプローチし、曲を書く。“野生の思考”といえるかもしれない。そうして出来あがったものは、安易に名前をつけられない“発明”になる。だから、再び菊地さんの言葉を借りると「一回ファンになった方はもう一生離れない」魅力を孕むのだろう。これは小林さんにもいえること。

ていうか菊地さん「陰ながら応援しております」っていってたけど、陰ながらといわず今の高橋さんとまたお手合わせ願いたいものです。そんで小林さんとも出会ってほしい。窪田晴男経由とかで。

・高橋徹也 / チャイナ・カフェ [PV]


という訳で最後に、菊地さんの「恥ずかしながらMV出てるんですよねアタシ」シリーズをどうぞ。「探さないでください」っていってたけど(笑)。『大恐慌へのラジオデイズ 第18回』ではこのときの撮影エピソードも話していますので、気になる方はをご購入ください。回し者か。