2003年08月22日(金) |
このところ、玄関を出ると、いつでも廊下のそこここに、蝉がひっくり返っている。まだかろうじて生きている者もいれば、もうしんとして動かなくなった者もいる。耳を澄まさなくともまだまだ辺りは一面蝉の声に押し包まれているのだけれども、でも、もうこうやって、蝉の落ちる季節になったのかと、改めて知る。私は娘の手を引きながら、ひっくり返った蝉の横を、毎朝そっと通り過ぎる。 この一日二日、急に陽射が強くなる。いや、強烈になる。路を往く人々の足元からは、濃いくっきりとした影がゆらゆらと伸び揺れている。
この数ヶ月、心の中にどんどん溜まる一方だった不安を、思い切って日記帳に書き出してみる。気がつけば十頁近くが埋まっており、右腕がぱんぱんに膨れるほどになっていることに我ながら驚く。こんなになるほど、私は不安を貯め込んでいたのか、と。苦笑いが漏れる。 それは、私にとって大きな決心だった。これまで自分が大切に築いてきた生活を全部捨てることになる程の大きな決心だった。でも、それをしてでも決心しようと思った。大切だと思ったから。だから、頑張ろうと思った、踏ん張ろうと思った、多少のことでは挫けるものかと思った。少しずつ心の奥底に増えてゆく不安に本当は気づいていたけれども、それでも、それも含めて乗り越えてゆこうと思った。 けれど。 ノートにそうやって自分の不安をあるがままに書き出してみて。気づいた。私は、今ここで、立ち止まらなくちゃいけない、と。このままこの道をこれ以上突っ走ってゆくことは、できないんだ、と。 多分、十年前の私なら、突っ走っていってしまっただろう。それがなんだ、と突っぱねて、突っ走ったことだろう。捨て身になって。でも。 私はもう知っている。私には、十年後も二十年後もあるのだ、ということを。そりゃぁもちろん、たとえば明日事故に遭って、私は突然死ぬかもしれない。こうしている間に地震が起きて、明日も待たずに私は死ぬかもしれない。それでも。私という人間は、死ぬその時が来るまで生き続けてゆく者なのだということを、私はもう知っている。そう、今は突っ走ってやり過ごすことができるかもしれないけれども、この膨大な不安を抱えたまま、このままこの道を走ってゆくことは、死ぬまで走り続けることは、私には、もう、できない。それがどんなに辛く悲しいことであっても、失いたくない緒を手放すことになっても、これからも生き続ける自分の為に、自ら進路を変えるという選択をする勇気を持たなければならないことを、私はもう、知っている。
娘を寝かしつけ、ぼうっとしながら煙草をくゆらしていたところに電話のベルがなる。出ると、もう十年来の友人から。今回の私の一大決心にまつわるあれこれを知っている数少ない友人の一人。「今すぐ近くに来てるんだけど」と言う。驚いて玄関を開けると、にかっと笑ってその友人が立っている。 麦茶をちびちびと飲みながら、あれこれと話す。じゃぁそろそろ帰るよと言って立ち上がった友人が、くるりと振り返って、こんなことを言った。 「今回のことについて、君の周囲にいる人間たちは、君がどれだけ頑張っていたか知ってる。踏ん張ってたかも知ってる。だから心配しなくていい。自分が思ったようにやればいい。 だから。このことで自分を責めたりするな。自分に自信をもっていい」。
友人が帰った後、テーブルに並んだ二つのグラスをぼんやり眺めながら、思わずふぅっと息が漏れる。あぁ、奴は、この言葉を言うためだけに今夜ここまで車を走らせてくれたんだな。この野郎。なんて奴だよ、まったく。
窓の外からまだ響いてくる蝉の声に耳を傾けている私の脳裏を、幾つかの大切な友の顔が、まるで走馬灯のように走ってゆく。あぁやっぱり。 友とは、私にとって、宝だ。
それにしても。 失ったり手放さなければならなかったり。大切で大切で仕方がないのに、本当に長いこと大切に心の中で育んできたものであったのに、それを無残に潰されてしまうような出来事に出会ったり。 いろんなことがあるけれど。 それでもやっぱり、生きてるってことは面白い。どきどきする。それが辛く悲しいことであっても、虚しくて虚しくて涙なんて出ないで笑うしかないようなことであっても、それでも。 生きてるってことは、やっぱり面白い。 |
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