2003年08月29日(金) |
その日。 このところ心に余裕をもてないせいで先延ばしにしていた幾つかの用事を何とか済ませ、肌に突き刺さるような陽射の下ひとり、とぼとぼと歩いていた。自然に前屈みになってしまうくらいのこの急坂をあがれば、ほんの僅かだけれども銀杏の木や欅の木の木陰の下を歩くことができる、と、ここからではまだ見えぬ、その先に在る筈の木陰を頼りに、私は足を前に前に進める。イチ、ニ、イチ、ニ…。歩を進めながら私はふっと顔を上げ、そして。 まさに目が覚めるような心地。その一瞬、私の体はまるで時間の流れからまるっきり切り離された空間に置かれたようで。そこらじゅうに溢れていた蝉の声も眩むほどの陽射も、まるっきり別世界になる。そこに在るのはただ、私と、あの大樹と。 あの大樹の包帯が、すっかり解かれていた。適当なところで切り落とされた太い枝々はもちろん切り落とされたまま、ひどく不自然な彼の姿に変わりはないけれど。でも。 大樹は在った。そこに在った。あの幅広の包帯を解かれて今、以前と姿形は変われど、でも、やはりそこに在った。
こんな時、どんな言葉を用いればいいのだろう。どんな言葉を用いれば誰かにこの思いを伝えることができるのだろう。 ただ、嬉しかった。それはもう、ただただ、まっすぐに。そう、嬉しかった。 ある日突然立ち枯れたあの大樹が今、病を乗り越え、私の目の前に在る。確かに在る。そのことが。 ただ、嬉しかった。
全身ぐるぐる巻きにされていた包帯を解かれ、一度は病に侵されたその身体を肌を風に晒す、それは一体どんな心地なのだろう。幾重にも切り刻んだ腕の傷を隠すために巻いていた布を外すときって、そういえばどんな心地だったろうか。自分の腕にびっしり刻まれた傷痕を何となく眺め、そして再び大樹を見上げ、私は、誰に言うでもなくひとり呟いてみる。 まだやれる。まだまだやれる。 そう、いつだって、やり直せる、歩き出せる。生きてさえいれば、いつだって。この大樹が瀕死の淵から再生したように、私だって。全身傷だらけになってもそんなの大丈夫。生きてさえいれば、いくらでも。
私はまだやれる。 |
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