見つめる日々

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2004年02月10日(火) 
 橙色のカーテンを開けると、まだ明けたばかりの今日の空はずいぶんと薄暗く、空一面を雲が覆っていた。それが徐々に徐々に薄れてゆく。東から射してくる黄金色の陽光に、街が空が次第に目覚めてゆく。陽光を受けたあちこちの窓がきらきらと輝き、電線に止まった雀たちの小さな囀りが辺りに響く。
 気がつけば、空を覆っていたはずの雲がすっかり地平線に沈みこみ、代わりに、水縹色の空がすこんと抜けてそこに在る。

 そういえば、孤独を以前ほど感じなくなった。しばらく前、そのことに気づいて以来、孤独というものについて時折考えている。
 十代、二十代の頃、孤独は私にとって、負として捉えられていた。
 何処までもひとりぼっち、身を切られるような寂寥感と切迫感、誰かにそばにいてほしいという願いはいつでも切実で、同時に、この心の刃を殺げさせるような存在であるなら誰とも交わりたくないという、矛盾。一体自分は何に拠ってここに在ればいいのだろう、私は何処までもひとりだ、ひとりぼっちだ、この世の鬼っ子のように生まれついて、そして侘しく死んでゆくのだ、一体それに何の意味があるのだろう…。
 延々と続くそうした問いに、答えは殆ど持ち合わせていなかった。気づけばいつだってぬくもりに飢え、孤独という固い殻にすっぽり覆われて、喉は乾き窒息寸前だった。
 そうしている間にも自分はどんどん年老いてゆき、十代特有の諸刃の剣のような鋭い心の切先が、腐食して、錆びて欠けてゆくのを感じ、それは余計に私を焦らせた。まるで、戦場のど真ん中で武器を使い果たし丸腰になった戦士みたいに。
 でも。
 ふと見れば。
 私にとっての孤独というものがすっかり姿を変えていることに気づいた。
 今私は殆どの時間をひとりで過ごす。病院に行き、仕事の打ち合わせで外に出る以外、昼間はたいていひとりだ。一人で考え、一人で行為し、一人で呼吸する。
 でもそこに、昔のような切羽詰った孤独感というものはない。いや、孤独感というものは今ももちろん私の身近にあるのだけれども、そうじゃないのだ、昔のようなものではなく、孤独はいつのまにか、私を包む柔らかな毛布のようにここに在るのだ。
 孤独という毛布。それは本当に、とても柔らかい。時に私をあたため、時に私を慰め、時に私を愛す。孤独というものが実はまさかこんな姿をしていたなんて、以前は思いもよらなかった。そしてまた、失いたくないと願い続けた心の切っ先、それもまた、決して失われるものではないということも、あわせて知った。
 確かに刃は時に錆びて、時に朽ちて、その先端は折々に姿を変えてゆくけれども。自分が失いたくないと思うのならば、持ち続けることができるのだということ。
 そう、刃も孤独も、私次第で姿を如何様にも変え得るものだった。

 そのことに気づいた時、私は、自分の口元がすっと緩む音を聞いた。あぁそうか、私は今、術を学べと言われているのだな、と思った。
 心の刃も孤独も、私の味方なのだ。私がここで生きてゆくために必要なもの。言ってみれば、私の武器。
 でもそれは、人の魂を切り裂くための武器ではなく。私をあたため私を守り、同時に、私を取り囲む人をあたため守る武器として。そんな武器として用いるための術を、今学べ、と…。

 多分、それは容易なことじゃぁない。でも、できないことでも、ない。きっと。
 変わってゆくものを変わってゆくものとして受け容れること。変わらないものを変わらぬものとしてそこに在らしめること。その両方を、私がバランスよく育めたら、多分、きっと。

 寂しくないと言えば嘘になる。いつだって或る意味で寂しいし、切ないし、哀しいと思うことも、ある。
 けれど、同時に、それを補ってもあまりあるものが、今の私には、在る。この大地に、世界に、自分が立っているという感覚、存在しているという感覚。それが、私を、足元からしっかり支えている。
 孤独も刃も、負の産物ではなく、抱きしめ得るあたたかなものであったということ。それらを抱きながら、自分が今を生きているということ、そのことを、肯定的に受け容れるということ。
 それが多分、今私にとって、大切にしたい、ことの、ひとつ。


遠藤みちる HOMEMAIL

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