2004年03月16日(火) |
今日もアブラムシを潰す。開きかけた新芽の、寄り添い合う葉の間々に彼らは必ず潜んでいる。特に朱赤のミニバラの樹はひどい。それは新芽から溢れんばかりの勢い。新芽を一思いに指先で挟む。指の腹でアブラムシが弾ける音がする。ぶしゅっ、ぶしゅぶしゅしゅっ。その音はそこにもここにも。ひととおり潰した後、私は仕上げに毒薬を噴きかける。それでも多分、明日になればまた、別のアブラムシがここに集う。そして私は彼らを潰す。繰り返される行為。これは間違いなく私の、現実に為している毎日の一断面。 そう、最近また、現実と夢とが入り混じってきている。夢が現実に溢れ出してきているのか、それとも現実が夢を侵蝕しているのか、その辺りさえ定かじゃぁない。だから困る。目覚めてすぐに夢を辿り、あぁこれは夢なのだと自分に言い聞かせることができれば、それはまだいい。それができなくて、しばらく経ってから、あれ、と振り返るとき、私は夢と現実との境がつけられなくなっている。あれは夢だったのか、それとも現実だったのか。彼女から聞いた声は現実のことだったのか、それとも夢の中でのことだったのか。どうしよう、と途方に暮れている間にも時間は過ぎてゆく。たとえばその彼女に今電話をして、これこれこういうことがあったっけ、と尋ねることができたなら、私はそこで、夢と現実とをそれぞれに知ることができるだろう。しかし、私はいつでも、電話の前で立ち止まる。こんなことで電話をして何を話せばいいのだろう。彼女たちは夢と現実にしっかりと線引きをし、しっかり毎日を過ごしている。そんな彼女らを呼びとめて、私は一体何をどう話せばいいのだろう。しばらくそうして電話を見つめ、私は結局受話器に手を伸ばせぬまま視線を外す。そして昨日も今日も明日も、私は、一体何処までが夢で何処までが現実だったのかを把握できぬままに過ごしてゆく。少しずつ少しずつ堆積されてゆくその曖昧な記憶の断面。飽和状態になる前に、どうにかしたいけれども、じゃぁ一体どうすれば、それは昇華できるのだろう。その術が、分からない。
娘と二人の生活をするようになってよかったなと思うことのひとつは、今のこの二人の生活には頼る人が基本的にいないということ。そうなってようやく、気付くことができた幾つものこと。 たとえば夜眠るとき、私は必ず不安になる。もし眠っている間に何かが起きたら。私が睡眠薬を飲んで意識を失っている間にもし何かあったら。そう考えるだけで私は恐い。だからどうしても、処方されている睡眠薬を規定通り飲むことができない。半量にしたりほんの一粒だけにしてみたり。もちろんそれでは私は眠ることがままならないから、結局熟睡できずに朝を迎えてしまう。それでも私はほっとするのだ。あぁ今日も無事に朝が来てくれた、と。そんなとき、ありがたかったなと思う。何故なら。昔三人で暮らしていた折、私は無条件に薬を飲んでいた。薬を飲んだって眠れないことが殆どだったけれども、それでも何も考えずに、飲んで横になっていた。それは、三人目の存在があったからだ。私が眠ってもその人がいるから大丈夫、何かあったら私を起こしてくれるだろうし、私はともかく娘のことは守ってくれるだろうという無条件の安心感があったからだ。三人で暮らしていただけでは、私はきっと生涯そのことに気づかなかっただろう。だから、今こうやって二人で眠る時間を迎えるたび、私は思う。あぁ、ありがたかったな、と。 たとえば洗い物、洗濯、炊事。毎日必ず為さねばならない物事。そのどれをとっても、今私の隣には代わりにやってくれる人はいない。確かに、三人で暮らしていた折だって代わりにやってもらうことなどなかった。けれども。気持ちが何処か違う。ちょっとさぼろうかな、と思ったり、今日はしこしこやってみようかなと思ったり、そういうことが自分で決められる。そのことが私に気持ちの余裕を持たせてくれる。余計な罪悪感を、抱かなくてすむ。 それは翻せば、やっぱり何処かで相手に頼っていたということの表れなのだ。あなただって一人の大人なのだからやろうと思えばできるでしょ、やってよ、という気持ちの。そしてまた、一人の主婦としてやらねばならぬことを自分は今怠ったということに対しての罪悪感。 些細なことかもしれないけれども、そうやって私の中に日々少しずつ溜まっていたのだろう泥を、私はこれもまた今、少しずつ少しずつ、理解してゆく。 そして感謝する。今こうやって二人が生活していられることを。今毎日のこの目に見える生活は、確かに私が自分で支えているものだけれども。でも、見えないところでは。一体幾つの手がこの私たちの生活を支えていてくれているだろう。そんなこと、二人きりになるまで考えも及ばなかった。いや、違う、頭では利巧そうに考えてみたりしていたけれども、そうじゃない、こう、実感として、身体の芯でじんわりと染みるように感じるこの感覚。今だから、ようやく、分かる。 そしてまた、誰のいいなりになるのでもなく、かといって自分をできるかぎり強いるのではなく、芋虫のような速度でもいい、自分なりに呼吸するようにして生活を組みたててゆくこと。私にとって、これほどのリハビリ方法はなかったのかもしれない、と、今にして思う。そうしてこの、贅沢なリハビリ生活を支えてくれている見えない幾つもの手、手、手…。 久しぶりに話をした旧知の友から、少し見ないうちになんだかずいぶん強くなったんじゃないのと言われる。いや、強くなったんじゃなくて、自分の弱いところをようやく受け容れられるようになったみたい。そう答えたら、大きな声で笑われた。君がそんなことを言うとはね、いやぁ、歳をとってみるもんだな。 窓を開け放した部屋、ハープギターの音色がCDプレーヤーから繰り返し流れている。部屋を渡る風に乗って、何処までも何処までも。 不安を数え上げたらきりがない。不安に苛まれず安心して眠れる夜なんて、皆無に等しい。それでも。 誰の上にも等しく朝は来る。だから私は今日もこうして生きている。 |
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