2004年03月18日(木) |
朝カーテンを開けると、空がざわめいている。ぐわんぐわんと蠢く雲。いつ雨粒が落ちて来てもおかしくはない暗さを湛えて、ぐわんぐわんと。その荒い呼吸は、見ている私に伝染しそうなくらい。 こんなときは特に海が見たくなる。娘を保育園に送り届けた後、仕事をしなくちゃと急く気持ちをよいしょと棚上げし、私は自転車を海の方向へ走らせる。 あぁやっぱり。濃紺と黒橡色を混ぜたような色合いで、海はぐわわんとのたっている。一瞬も止まることのない波が描く線を、私はただじっと見つめる。私の心の中で波はじきにそそり立ち、両側からざぶんと大きな音を立てて落ちて来そうな気配。真中に空いていたはずの空間がその瞬間に弾け飛び、私の内からも様々な雑音が砕け散る。私がそうやって内なる景色を凝視している間も、波は一瞬も休むことなく動き続け、海は刻々と、その色合いを変化させている。 じきに雨が降り出す。景色はあっという間に灰色にけぶってゆく。どの屋根もアスファルトも濡れて、行き交う車の音も雨粒を含んでいつもとは違って聞こえる。
ここに越して来た折、横断歩道横に立てられた看板が私の目を捉えた。そこにはこう書いてある。「止まるはず 老いの甘えが招く事故」。最初私はこの文言に呆気にとられた。ずいぶんなことを言うものだと。これが、長いことこの世に生きて歳を重ねている人に対して向けられる言葉なのかと。 私にとって、年老いた人々というのは、それだけで尊敬に値する対象であった。ここまで生きてくるまでに一体幾つの山谷を越えてきたのだろう、それは他人の想像など寄せつけない道程であったろうな、と。そして、それらを経て、今こうして幾つもの皺を刻み昔よりもきっとひとまわりもふたまわりも小さくなった体で道を往く姿は、届くことなどなくとも会釈して余りあるものだと私は思っていた。 でも。それはどうなんだろう。もう今の世の中に、私のような価値観は、通用しないのかもしれない。 たとえば自転車で走っている。だいぶ先に老人の姿が見える。老人の数メートル手前から私は鈴を鳴らし、道のどちらかに寄ってもらおうと思う。けれど、そうして鈴をいくら鳴らしても、脇に寄ってくれる老人のなんと少ないことか。最初は、耳が遠いのかもしれない或いは年老いた方だから動きがゆっくりなのかもしれないと思い、私は自転車を降りてその老人の脇をすり抜けようとした。その途端飛んで来た罵声。「危ないじゃないかっ、馬鹿野郎!」。驚いて私はすみませんと頭を下げはしたものの、納得のいかない気持ちが心に生じる。私が自転車で脇を走りぬけようとして驚かせたのならまだしも、そうじゃないのだ。どうしてこの人はそんなに怒っているのだろう。 また別の日には、老婦人が買い物包みを下げて道を歩いている。私はやっぱり鈴を鳴らす。老婦人は全く気付かないのか、道の中央を変わらずに歩いている。私はやっぱり自転車から降りてその脇をすみませんと言って通り過ぎようとする。すると舌打ちとともに飛んでくる言葉。「こっちが先に歩いてるんだよ、まったく失礼な人だね」。 保育園と我が家の間には小さいながらスーパーがある。その入口付近にはいつも中年のご婦人たちが三、四人と集まって井戸端会議をしている。私が数メートル先からチリリンと自転車の鈴を鳴らすと、みな、一様に、不愉快な視線をよこす。けれども道の中央に陣取っている彼女たちにどいてもらわねば、私たちは家に帰ることができない。仕方がないから私はもう一度鈴を鳴らす。ようやくどいてくれるご婦人たち。でも、すみませんと言いながら通り過ぎようとする私の耳には、彼女たちの声がつきささる。「まったくいまどきの母親っていうのかしらね、あんなんだから子供が駄目になっちゃうのよ」。 そうやって幾人も幾人もの年配の方々と、私は毎日すれ違っている。すみません、通らせてください、そう言って頭を下げて通ろうとしてさえ、舌打ちなり雑言が飛んでくる。じきに、自転車の後ろに乗っている娘がこんなことを言った。「おじいちゃん、おばあちゃん、みんななんであんなに怒ってるの? どうしてママはすみませんって言うの?」 その夜、私たちはあれこれと話をした。でも一体、どう話せばいいのだろう。娘のどうしてという問いに満足に答えられるようなものを、私はどうしても見出せなかった。 あのね、狭い道で誰かとこうやってすれ違うときにすみませんってママが言うでしょ、狭い道だから、お互いに譲り合って歩かないとぶつかっちゃうでしょ、だからね、すみませんって一声かけて、それは、少しでも道を譲ってくれた人に対して、ありがとうって意味でもあるのよ。 でもママ、ママがすみませんって言っても怒ってる人いるでしょ。 うーん、そうだねぇ、それはもしかしたら、ママがすみませんって言った言葉が聞こえてなかったのかもしれないし。 でもママ、今日もそうだったでしょ。 うーん、そうだけど。でも、じゃぁ何も言わないでびゅんって横を通り過ぎたら、その人びっくりしちゃうでしょ、だからやっぱり、すみませんって一言言うのよ。 ふーん。でもね、ママ、ママが鈴鳴らしてても、ちっともどいてくれないで、怒ってる人いるよ。そういう人、私のこともぎろって見るんだよ。 うーん… なんでみんな、あんなに怒ってるの? … そうして娘が最後に言う。「あのね、自転車でこうやって走ってるでしょ、そういうときにね、おにいちゃんとかおねえちゃんは手振ってくれるの、だからね、私もバイバイってするのよ」。同じ自転車で行き交う場面であっても、彼女の中で、怒ってるのはおじさんおばさん、にっこり笑って手を振ってくれるのがおにいちゃんおねえちゃん、という構図が、もう出来あがっているのだということを、私はこの時初めて知った。 こんな娘に、年上の人を敬えと、どうやったら教えられるのだろう。おじいちゃんおばあちゃんを敬えと、どうやって教えたらいいのだろう。私が知っている年配の人たちへの印象は、もしかしたらもう、過去のものなのかもしれない。ちょっとしたことでも「ありがとう」「あら、ごめんなさいね」。そうした言葉を持ってにっこりと会釈する人々。私はそういった人たちにどんなに心あたためてもらっていたことだろう。でも。 今私がこの街ですれ違う人たちは、あまりに殺伐としている。歳を重ねるごとに人は丸くなる、という言葉を昔聞いたことがあるが、そうした言葉ももう、遺物なのか。 そして思うのだ。あぁ年齢からいえばすでにもう立派なオトナたちがこんな姿をしていて、一体どうして年若い人たちにあれやこれやと言えるのだろう。たとえば自分の行動に責任を持てとはよく言われる言葉だけれども、それじゃぁそれを言うオトナは自分の行動にしかと責任を持っているのか。躾がなってない、挨拶さえろくにできない、と若者を罵るけれども、罵る側のオトナは果たしてどうなのか。実際にこうやって私がすれ違っているオトナたちを見ていると、私は疑問を抱かずにはいられなくなる。 そうして思い出す。「止まるはず 老いの甘えが招く事故」。実際、横断歩道やそれ以外の場所でも、信号を無視して歩いてゆく人々の姿は至るところに見られ、そしてまた、クラクションを鳴らす車に向かって唾を吐く老人の姿を、私は何度も目にしている。「赤信号は止まれだよ」と声をかける娘に、何度しぃっと口に指を当てたことか知れない。「だってママ、赤信号は止まれなんだよ。青信号は渡れなんだよ」「うん、そうだよね、だからママとああ子は青信号の時に渡ろうね」「なんで他の人は赤でも渡っていいの?」「いや、本当は渡っちゃいけないの」「ヘンなの」「ヘン、だよね、うん」。 年老いた者は敬われるのが当たり前、止まるはずという思いこみは、単なる傲慢に過ぎない。敬わられるには、敬わられるだけのものをその人が備えていなければ、どうやったって無理な話なのだ。 「止まるはず 老いの甘えが招く事故」。こんな標語が立つ街に、私は今日も暮らしている。それが嫌だとは思わない、ただ少し、寂しいと思う。でもそれは、私がかつてそうじゃなかった社会を知っているから寂しいと思うのだ。今この街しか知らない娘にはきっと、これが当たり前の風景として刻まれてゆくに違いない。だとしたら。私が娘に教えられることは何だろう。 きっとこの看板だけの話じゃぁない、人と人との潤滑油であった「ありがとう」という言葉、「ごめんなさい」という言葉、別に顔見知りじゃなくとも道ですれ違う折に何の言葉もなくとも軽く交わされていた会釈、そういったものは、今枯れゆく一方なのかもしれない。それでも私たちはこの場所で暮らしてゆく。だとしたら。 私は繰り返し言い続けるしかない。「ごめんなさい」「ありがとう」。どんな小さな場面であっても、相手から怪訝な顔をされるばかり、それどころか舌打ちされるばかりだったとしても、「ありがとう」「ごめんなさい」、私は言い続けるだけだ。それらがどんなに大切な言葉であるのかを、もう理屈ではない、身体で彼女に示す、それが今、私にできること。 すれ違おうとしている近所の人に「こんにちは」と声をかける。最初怪訝そうな顔をするばかりだった人が、数ヶ月経てようやく「こんにちは」と返事を返してくれる。家に戻って二人きりになったとき、娘が私の耳に囁く。「おばあちゃん、こんにちはって言ったね」。娘の顔が大きくにぃっと笑っている。うん、そうだね。明日もまた挨拶しようね。ねっ。
雨はまだ降っている。この雨が降り止んだ後には、きっとまた春の陽射が街中に溢れる。見上げた灰色の空に、何となく口元が緩む。あぁそうだ、私は信じたいのだな、どんなに枯れてがさがさに見えていようと、その奥底には、まだまだ人の中に潤いが残っているはずだ、と。 馬鹿かもしれないけど、私はやっぱり、そういう人のぬくみを信じていたい。だって私は人間というものが、こんなにも好きだから。 |
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