見つめる日々

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2004年03月24日(水) 
 雨が降っている。朝のうちは我慢していた空から、しとしと、しとしとと、音もなく。雨の音は耳に聴こえる音というよりも、目や肌で感じる音だなと、ぼんやり窓の外を眺めながら思う。
 ここのところ、娘は成長痛がひどいようで、夜何時間も泣くことがある。長いときには五時間も続けてずっと泣いている。足が痛いよぅ、足が痛いよぅ、そう言って彼女は泣く。私はもちろん手を伸ばし、彼女の足をさする。足痛いよう、足痛いよう。私はとりあえず常備している湿布を、彼女が望むように足に貼ってやる。そしてさらに彼女の足をさすり続ける。こっちが痛い、こっちも痛い、痛い、痛いよぉ。大丈夫だよ、ママがずっとさすってるから、大丈夫だよ。痛い、痛いよぉ。私はさすり続ける。痛みで眠れない彼女はひたすらに泣き続ける。抱っこぉ、抱っこぉ。彼女が望むままに、私はもう17キロを越える彼女の体を抱きかかえ、彼女が最近お気に入りの、ラピュタの歌を繰り返しプレーヤーから流し続ける。抱いているうちに、彼女はまた、痛いよぉ痛いよぉと言う。急いで横にして、私は足をさする。そうすると彼女はまた、抱っこぉ、抱っこぉ、と泣く。抱っこしても何をしても、もう追いつかない。ぐちゃぐちゃになった彼女は、私にしがみつくようにして泣き続ける。
 或る夜、痛いという彼女の足をさすり続けていると、瞼を閉じたままの彼女が突如、大声を上げた。パパぁ、パパぁ、パパぁ。
 目を閉じたまま、彼女は大声で呼ぶ。パパぁ。
 私は目を閉じたままの彼女の身体をかき抱いて、あぁこ、ママ、ここにいるよ、大丈夫だよ、と声をかけてみる。彼女の耳にそれは聞こえたのかどうか。彼女が繰り返す。パパぁ。パパぁ。
 涙が出そうになった。たまらなかった。切なかった。どうしたら彼女の心を今の気持ちを撫でてやることができるんだろう。切なくてたまらなくて、だから彼女を抱き上げて、彼女のお気に入りの歌を流した。それに合わせて、小さな声で私も歌った。
 じきに彼女は眼を覚まし、痛いよ、痛いよぉと言い始めた。私はいつものように彼女の望む場所に湿布を貼り、片手で何とか彼女を抱きながら、もう片方の手で彼女の足をさすった。やがて彼女の泣き声が止んだのを見計らって、私は声をかけてみる。
 「あぁこ、お茶、飲む?」
 「うん」
 パパぁ、パパぁ、と叫んでいたことを忘れてしまったのか何なのか、彼女はけろっとした顔で返事をした。足、今痛くないの? うん。ずっこけてしまうような彼女の返事。
 真っ暗な部屋の中、小さな灯りをつけて、彼女にお茶を差し出す。ごくごくと喉をならして飲む彼女の横顔を、私はじっと見つめる。しばらくするとまた足が痛いと彼女は泣き始めた。私はもう一度彼女を抱っこして、彼女が眠るまでずっと、彼女の足をさすり続ける。その途中で彼女は突如、思い出したように、パパぁ、と泣いた。だから私は、彼女に言った。あぁこ、パパはね、今ここにいないの、でもママはここにいるから、ね。彼女は泣いたまま、そうして眠った。
 彼女が眠ったのを確かめて、私はそおっと布団から抜け出した。カップに半分、珈琲を入れる。少し迷ったけれど、煙草に火をつけた。そしてしばらく、ただぼおっと、闇の中に座っていた。
 あぁ、ようやっと言ったか。
 おかしな話だが、最初に浮かんだのはそういう思いだった。やっと言ってくれた。やっと泣いてくれた。パパ、と。
 別居した折も、離婚した折も、彼女は私に、ほとんどパパのことを訊かなかった。私が、パパはもういないんだ、これからはママと二人で頑張ろうね、と言ったときも、彼女は、うん、と答え、にっこり笑った。そうして二人、毎日を暮らしてきた。当然のことだが、その間、私は一度として、父親の悪口に当たるようなことは、口にしたことはない。彼女がもし問うてきたら、できるかぎり答えてやろうといつも思っていたが、彼女は決して私に尋ねなかった。保育園の行き帰りに、お友達のお父さんの姿を見たりして、彼女の眼がその姿を追っていくことがあっても、彼女は私に、パパのことを殆ど言わなかった。時々、三人で行った場所に二人で出かけたりすると、パパとここに来たよねぇ!と言うくらいで。だからそんなとき、私は、そうだね、三人で来たねぇ、と笑って返事をする。私は、正直に言うと、そんな彼女がいつも、心配だった。
 実家の父母にも、私は頼んだ。あぁこの前で決して父親の悪口は言わないでくれ、と。そして、あぁこがパパの話をもし出したなら、そのまま彼女の話を聞いてやってくれ、と。でも、彼女はじぃじばぁばにも、殆どパパの話をせず、話どころかパパとさえ口にせず、そうやって、私たちは今日まで、暮らしてきた。だから私たちは、ずっと心配だった。彼女の中にどれほどの想いが沈殿されていることだろう。それらを吐き出してやれることができないままで大丈夫なんだろうか、でもじゃぁ一体、どうしたらいいんだろう、と。
 それが今、彼女が、パパを呼んで泣いた。私は、そう叫ばれて泣かれて辛くなかったといえば嘘になる、けれど、それ以上に、それ以上に私はほっとした。ようやく泣くことができる、そんな気持ちだった。
 ねぇあぁこ、切ないねぇ、痛いねぇ、哀しいねぇ。パパがいないということは、私がどれだけ努力したって埋められるものじゃぁない。それは努力とかそんなもので追いつくことじゃぁないんだよね。私はそのことをいつも思うんだ。でも、いないということを負い目にだけは感じて欲しくない。だから私はやっぱり、努力するんだ。それがあなたに届こうと届くまいと、そんなことは関係なく。それでもやっぱり、あぁこ、切ないねぇ、哀しいねぇ、たまらないよねぇ。でもね、それでも、私たちはこうやって生きていくんだよ。毎日を一つずつ営んでゆくんだよ。だからママは、しっかりここに立って、歩いてゆこうと思うよ、どんな毎日であっても、こうやって一歩ずつ歩いてゆくことが大切なんだよということを、あなたに伝え続けてゆけるよう。笑っていようと思うよ。
 翌朝、起きてきた彼女は、痛みもすっかり忘れたかのような顔をして、私が作ったご飯をしこしこと食べている。もう大丈夫? 何が? 足。全然痛くないよ。そう言ってにぃっと笑う彼女の顔は、昨夜パパぁと泣き叫んだことなど、まるっきり覚えていないかのような晴れやかな笑顔で、逆に私の方が苦笑いしてしまう。
 そしてまた夜が来て、彼女は夜中になると足が痛いと言って泣く。私はやっぱり足をさすって、大丈夫、ママがずっとこうして撫でてるからね、と繰り返す。抱っこして、足をさすって、足をさすってはまた抱っこして。でも。
 彼女はあの夜以来、パパと呼ばない。あの夜一度っきり。それが彼女の意識してのことなのかそうではないのか、私は知らない。でも、そのどちらであっても。
 私は、娘に、感服する。あんたはすごいよ、と。もし彼女が同じくらいの歳の友人であるならばきっと、あんたって奴はすごい奴だよ、と、間違いなく言っているに違いないと思う。
 ねぇ、思うんだけど。あなたが私の娘として産まれてくれて、本当によかった。

 だから今日も私は娘と抱き合ってキスをする。そして、もう何度も繰り返し交わしている言葉を、今日もやっぱり二人して耳元で囁き合う。
 ママ、あのね、あぁこ、ホントはね、
 なぁに?
 実はね、あぁこね、
 なぁに?
 ママのことがだーいすきなの。
 うん。知ってる。あのね、あぁこ。
 なぁに?
 実はね、ママね、
 へへへ、なぁに?
 あぁこのことが、いーっぱいいーっぱい、だぁいすきなの。
 ママ好きー。
 ママもあぁこ好きー。


遠藤みちる HOMEMAIL

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