2004年04月12日(月) |
昼間の陽射はもう、春じゃない。額に添えた手がなければ、反射的に瞼を閉じてしまうくらいに、それは容赦なく眩しい。もうほとんど花びらの散り落ちた桜の木の下を、私は今日も自転車を走らせる。時々風に乗って、残り少ない花びらがひらひらと、私の目の前で舞っている。レンガ敷きの道の両脇には、眠るように薄桃色の花びらが重なり合って休んでいる。 娘はこの春から制服になった。紺色のダブルのブレザーとひだスカートを着た娘は、なんだかもういっちょまえの少女になったかのようで、その誇らしげな頬は少し赤く染まり、私ににぃっと笑いかける。私はなんだか、自分の娘じゃぁないような気がして、少し気後れする。ついこの間まで私のおなかの中に入ってたはずなのに。ぺったんこになった腹をそっと撫でながら、そんなことを思う。そうやって私の周囲では、あっという間に時が過ぎてゆく。これでもか、これでもかというほど駆け足で。だから私はこんなふうに、時折途方に暮れるのだ。途方に暮れながらそれでも、娘のその初々しい姿に、心がほっとあたたかくなったりもするのだ。
そして。 それは唐突にやってきた。友人に勧められて購入したスパッツの袋を破いて、それを履いてみようと思ったその時。この臭い。この臭いは。 ずさっと、私の脳裏に閃光が走る。だめだ、いけない。今これを開いてはいけない。私の内でかんかんと警鐘が鳴り響く。私は慌ててそれを元の袋に戻す。これは何、何の臭いだったろう。思い出せない、いや、私はきっと鮮明に覚えている。記憶に封じ込められているだけで、私はこの臭いをいやってほど覚えている。背筋に戦慄が走る。だめだ、今はいけない。私は咄嗟に宅急便の袋を部屋の隅にぐいと押しやる。動悸が激しくなるのを何とか抑え、娘に、歯を磨こうなどと声をかけて、何事もなかったふりをする。 その夜、私は夢を見た。いや、瞼は閉じていたけれども眼はらんらんと、天井の隅々まで写し出していた。拒否する気持ちが私の体を抑えこみ、身動きがならない。そんな中で私は、ありありとかつての映像を見た。 直接的な加害者Sが、私の体にのしかかる。喚こうとする私の口を汗ばんだSの手が塞ぎ、もう一方の手は私の両手を抑えこみ、私よりも20センチ近く大きな体がぐわんと私の体に重なり。その後は何をしてもだめだった。この映像は音を伴わない。ただただ映像だけが淡々と私の脳裏を流れてゆく。そして場面はぱたんと次へ移る。 事件後の職場は地獄だった。職場の人間たち全てに、私はどんどん追い詰められた。そういう意味で、私にとって職場の人間たちは第二の加害者だった。彼らの様々な私欲が渦を巻き、私を呑みこんでいった。なら逃げればいい、別の職場に移ればいい、人はそう言う。でも。私にとってあの仕事は、本作りという仕事は、生きがいだった。幼い頃から夢見続けて、ようやく掴んだ仕事だった。私は、逃げたくなかった。強姦なんて事件は、なかったことにしたかった。そんなものはなかった、私はここで仕事をするんだ、その思いだけが私を支えた。でも。 味方は何処にもいなかった。そうやって孤立してゆく私を支えたのは、直接的な加害者であったはずのSだけだった。私に仕事を教えるかわりに、私に性行為を要求する。最初は震えた。冗談じゃないと思った。何千何百というミミズが体から涌き出てくるかのようなおぞましい錯覚を覚えた。けれど。私に選択の余地はもはやなかった。仕事ができないなら具合が悪いならさっさと辞めていいよ、と嘲笑的に突き放す編集長に、私はやれます、と言いきるには、仕事ができなければならなかった。私は。 私は結局、Sの要求を受け入れた。受け入れるしかもう、私は生き延びる術がないと思った。だって。 誰も認めてくれなかったのだ。私が強姦されたという事実を。最初そのことを知り、平謝りに謝った編集長も、やがて事実を持て余し、何もなかったと事実を捻じ曲げていった。もう一つの編集部の部員たちも、みながみな、強姦と事実を消去していった。そんな中、唯一、私を強姦した、と認めてくれたのは、直接的加害者であるSだけだった。彼だけが、申し訳ないことをした、と言った。ごめん、と言った。そう言いながらそれでは何故、私に更に繰り返し性行為の要求をしたのか、私には理解できない。けれど、彼だけだったのだ、強姦という事実があった、と、私の叫びに頷いてくれたのは。 そうしているうちに、私は少しずつ狂っていった。この人を好きになってしまえたら、もしかしたら強姦されたという事実を消せるのかもしれない、と。今思えば、信じられない思考回路だ。しかし、私は当時そう思ったのだ。みんながこうやって掻き消していくような事実なら、いっそ自分から消してしまえばいい、そうやって消してしまえば、私は楽になれるかもしれない、と。実際、今の私にとって味方は加害者Sのみなのだ。彼がいなかったら誰も私に仕事のノウハウを教えてくれる人はいない、ならいっそ、彼を好きになってしまえば。 そうやっていくうちに、私はどんどん鈍感になっていった。いや、いろんなものに対し、これでもかというほど鋭敏になり、同時に、鈍感にもなった。それは繋がってはいず、両極に引き裂かれてゆく類のものだった。私はそうやって、両極に、びりびりと引き裂かれていった。私の感覚は、私という人間は、壊れていった。私という形骸がいずればたんとアスファルトに倒れ臥すには、そう時間はかからなかった。 そんな中、Sからの要求で私はSの望む通り性行為を繰り返した。それがどんな行為だったのか、私にはほとんど思い出せない。でも。奇妙に鮮烈に覚えている記憶がある。それは。 彼の性器の、彼の体の臭いだった。 饐えた臭い。他にうまい表現方法が見つからない。饐えた臭い。腐った臭い。薄汚い公衆便所の臭い。座敷牢の老人の体から放たれるような独特な臭い。 その臭いを放つ性器を、口に突っ込まれる。Sは私の頭を抑えこみ、私が逃げようとしてもそれは逃げられないのだった。口中に広がる腐臭。そしてその味。あぁ、この味と臭いが、さっきの正体だと私は思った。包装紙を解いて品物を出した、その品物から、袋から、強烈に臭った、あの臭いの正体だと、私は悟った。あぁ、どうして。 彼はその行為を終えると風呂に入った。そしてその風呂に、私にも入れと命令した。もう逆らう術などまったくなくしてしまっている私は、黙って言う通りにした。すると、その浴槽の水面全てを埋め尽くすくらいの垢がそこには浮いているのだ。白い垢が。私は、その垢から何とか自分の身を守ろうと、いつでもじっとして、ぴくりとも動かず、湯船に浸かった。その白い垢に触れたら私は気が触れてしまう、そんな気がした。でも、どうやったって逃げられないのだ、いつだって垢は、水から上がろうとする私の体にねっとりとくっついてくる。私はくらくらする頭を支えながら、部屋の隅で、隠れながら着替えをした。一体私は何をしてるんだろう、そう思った。もう全てがぼんやりしていた。曖昧だった。私は一体今生きているのかそれとも死んでいるのか、それさえもう定かではなかった。あぁ楽になりたい、いつもそう思った。全てのことから解放されて、楽になりたい。死にたい、というのとも違う、まさに、楽になりたい、という、その一念だった、私の中に在ったのは。 今、夜の闇の中、横になりながら私の口の中に蘇るその腐臭と味は、どんどん密度を濃くし、もう私はじっとしていることができなくなった。布団を破り捨てるようにして跳ね起き、これでもかというほど私は口をゆすいだ。何度も何度も繰り返し歯を磨いた。それでも喉の奥に臭いが味が残っていた。一分もするとそれらで私の口中が汚され、だから私はもう永遠に口をゆすいで歯を磨いて、そうしていなければならないんじゃなかろうかと思った。泣くなんて何処かにすっ飛んで、私は一人、真夜中の洗面所で、笑い出しそうな錯覚を覚えた。これを笑い飛ばさずして一体どうしろというのだ、と。 あれからあの臭いと味が消えない。だから、食べるもの食べるものすべてその味と臭いがして、果ては、私自身の体の内側からその臭いが味が滲み出してくる錯覚に襲われ、私はもう、抵抗するのにも疲れてしまった。 一体何処まで私を捕えて放さないつもりなんだろう、あの事件にまつわるいろいろな記憶たちは。どうしたら私を解放してくれるのだろう。どうしたら私を許してくれるのだろう。 私はもう、楽になりたい。あれからもう十年が経とうというのに、どうしてこんなにも鮮やかにそして唐突に私を襲い来るのか。もう許してくれたっていい頃じゃないか。 そして思い出す。私が友人に電話で、頼むから病院へ連れていってくれ、私はもう狂ってる、と泣きながら電話をした翌日だったか数日後だったか、加害者Sや加害者Mたちから電話があった。Sは言った。「頼むからしっかりしてくれ、でないと僕が困る、僕のせいになる」と。Mは言った、「自殺未遂でもしてるんじゃないかと思って電話した、生きてるならいいけど」と。 みんな自分の都合だ。自分を守りたいんだ。誰だってそうだ。だから別に、MやSだけがおかしいとは言わない。でも。そこまでして守りたい自分って何だ。他人をここまでずたぼろにしておきながらそれでも守ろうとする君たちって何だ。 臭いと味が記憶から突然引っ張り出されてしまったおかげで、いろんなことが、怒涛のように押し寄せて来た。ようやく落ち着いたと思っていた私に向かって。これでもかというほどの波が。 人間が人間である限り、恐らく犯罪はなくならないだろう、ということも。 そして人間が人間で在る限り、人間はどうやっても人間に救われるのだ、ということも。 これでもかというほど痛感してる。そんな私の口の中に、今日もあの恐ろしい味と臭いが充満する。それは錯覚かもしれない。けれど。錯覚じゃ、ない、かもしれない。 私が自分を許せないわけが、ようやく分かった。好きになってしまえたら強姦という事実が抹消されるかもしれない、なんて思って、自分をすりかえた、そのことが、私の怒りを分散させるのだ。この、私自身が、それを末梢しようとした、そのことが、私は何よりも許せないのだ、と。加害者たちに真っ直ぐに怒りや憎しみをぶつけられない理由だ、と。
少し疲れてしまった。私は楽になりたい。解放されたい。 記憶が途切れたといって慌てる日常、かと思えば、記憶がいきなり戻ってきてしまったがゆえに襲われる苦悩。
最初、耳の奥からそれは始まる。キーンという金属音が響く。あ、来るな、と私は思う。その私の思い通り、やはりそれはやってくる。私の体の内から、ぐわんぐわん、と、震えがやってくる。それは私の体を大きく揺らし、私はだから、何かに掴っていなければ、もう体を支えられないほどになる。倒れちゃいけない、こんなところで倒れちゃいけない、そう思って私は必死に壁や柱に掴る。そうしているうちに私の手のひらはぐんぐん熱くなって、びっしょりと汗ばんで、でもまだ震えは止まらない、まさに大地震のようなこの震え、止んでくれない。耳の奥でキーン、キーン、と、音が響く。もう少し、もう少しだ、もう少し耐えればきっと止まる。私はただそのことだけを祈る。 そうしてようやく、震えが引いていく。その頃には私の頭はもうぐらぐらしており、震えは去ったものの、何かによりかかっていなければその場に即座にしゃがみこみたい衝動に駆られる。「お客さん、大丈夫ですか?そこの椅子で休みますか?」。親切な店員が声をかけてくれる。すみません、とか何とか、私は口走り、その場を離れる。でも。 今日は椅子に座っている間にもその発作に襲われる。何度も何度も襲い来るその波に、私はとうとう床に倒れ、床を這いずりながら手を伸ばし、布団をひっぱり、頭からそれを被る。横になっても発作は、途切れ途切れに繰り返し襲ってくる。私はもう、それが引いてくれることを祈るばかりで。他には何もできない。
何故だろう、娘がいるとき、私のそうした発作は激減する。多分、私は娘がいると、娘を守りたいという気持ちがぴんと張り詰めているせいなのではないかと思う。もしここで何かあって、その時、私がもう一度襲われることも何することも別に構わない、でも、この娘だけは、娘だけは私はどうやっても守るのだ、と。私はただそのことだけを思っている。 そんな私に娘がにぃっと笑いかける。「ママ、手洗うときは石鹸つけなきゃだめよ」「ママ、今日はね、ゆいちゃんと遊ばなかったの、だってね、ゆいちゃん、意地悪するんだよ」「だからね、ママ、今日はにーなちゃんと遊んだの。ハンカチ落としもしたよ」。 別に何てことはない、ありふれた会話。他愛ない会話。でも、それが私を支えている。 こんなに穢れていても、どんなに汚れていても、それでも私は生きなければ、と思う。 生きがいだった仕事もそれまで当然にあった日常も、何もかもを失った今であっても、この私を必要とするこの小さな存在があるということ、それはなんて大きいのだろう。だから私は生きる。今日も生きる。何度発作に襲われても。口の中にあの腐臭や味が充満していても。それでも生きる。まだやれる、まだまだやれる、と。生きることがどんなに、しんどいことであっても。
私は、生きる。 |
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