2004年05月10日(月) |
真夜中に繰り返し目を覚ます。このところ、真夜中に目を覚ます時、必ず激しく咳き込んでいる自分がいる。激しくてだから苦しくてしんどくて、嫌でも体を起こさざるを得ない。だから体を起こす。すると、しばらくして咳は止まる。気づけばこうして咳の一つもせずに街を眺めている自分がいる。何故なんだろう。 真夜中の、午前三時くらいの街の景色を、こうやって窓を開けてただ眺めているのが私はこの頃好きだ。午前二時でも午前四時でもない。午前三時。夜明けの予兆なんてまだまだ世界の何処にも感じられないこの時間帯。街は静かに眠っている。 今は雨。街灯の明かりの周囲だけに、細かな雨の筋が浮かび上がっている。雨がアスファルトにぶつかる音は一切ない。音もなく降り続く雨。灯りの中でだけ、その存在が知らされる雨。 そうしていつのまにか、徐々に徐々に、空の色が変わってゆく。深い深い闇色が溶け出し始め、少しずつ少しずつ薄らいでゆく。それはまるで、人の痛みのようだ。その時はあんなにも、こんなにも痛んでいたのに、闇に痛みにすっぽり呑み込まれて出口なんて何処にもないと思っていたのに、気づけばこうやって、四方八方の壁が溶け出してゆく。何処かが溶け出すのではない。ただそこに在ったもの全体が、ゆっくりとおのずから氷解してゆく、そんなふうに。 そしてそれは、誰に向けてでもない、特定の誰へではなく、この世界にいる誰かへ、宛のない、私と同じくこの世に今生きる統べての人へと、ただ、流れ出してゆく。私の体の輪郭はもはや輪郭としてあるのではなく、世界と繋がる緒としてだけそこに在り、私は、私が溶け出して世界に広がってゆくのを、ただこうして感じている。 今、街灯が消えた。夜の間だけ点る彼らは、今、眠りに入ってゆく。それと入れ替わりに、世界は眠りから徐々に覚めてゆく。気がつけばもう、何処からか雀の鳴き交う声が聴こえ、ついさっきまで見定めることのできなかった樹々の幹の色、葉の色が、今くっきりと世界に浮かび上がる。 私は基本的に、日記に書いたことを読み返さない。数年前まではよく読み返していたと思う。でも、「見つめる日々」を書くにあたって、私は、読み返すのはやめよう、と決めていた。それは、誰かがこんなことを言っていたからだ。「読み返すことはいつでもできる。今日でも明日でも。だからそのまま置いておくことが必要なんだ。読み返せば否応なく「そのとき」に引きずられる。昨日書いたことを今日読み返せば、今日の自分に昨日の自分が思い出されてしまう。そうやって自分を引きずる必要は何処にもない。もし読み返すにしても、ずいぶん時間を経てからがいい。そうすれば今度は、日記を読み返すという行為が昨日や一昨日の自分に引きずられるのではなく、そういう自分がかつてここにいたということを確認することのできる大切な術になる」。その言葉を聞いて以来、私は、日記を読み返すことをほとんどしなくなった。だから多分、似たようなこと、あるいはもしかしたら正反対のことを、私は時折々に記していたかもしれない。でも、それもまた自分。そう思うと、違っていようと同じことを言っていようと、もう構わない、そんな気持ちになってくる。 そんな私が、今、ようやく、数年前からのこの日記を整理し始めた。それは、一番最初に記したものから順にまとめてゆくというもの。フォーマットを決めて、一日分ずつそこに流し込む。まさに単純作業。 まだ読み返すところまではいっていないが、いずれ、私はこれを一冊にまとめて、いつの日か読み返すことがあるのかもしれない。どうしてそうしようと思ったのか、よく覚えていないけれど、もういいだろう、そういう時期だろう、と、ほんの少しだけれど思ったことは覚えている。 私の日記のノートは横書きだ。そこに書き連ねた諸々事を、今度は縦書きで打ち出している。どんなことがここに記されたのだろう。読み返した時、私は笑うだろうか、泣くだろうか、それとも呆れるだろうか。いや、今の時点で、ちょっと私は呆れかえっている。よくもまぁこんなに書いたものだと。プリントアウトした紙の量に、呆れている。そして苦笑している。これを読むだって? 無理だな、こりゃ、と。 でも、同時に、少しうれしい。だって。 私がこうしてプリントアウトし、一冊にまとめてしまおうと思えたのはきっと、それらが私の中で、一歩、過去になったからだからだ。そして、ここまで私が生きてきた、これはその証だからだ。
あぁ。 やさしい歌を歌おう。今日はやさしい歌を歌おう。明日のことなんて分からないから、今日私がしたいことをめいいっぱい今日為そう。聴きたい音を聴き、この世界を眺められるだけ眺め、そして。 私の中から溢れ出す、やさしい歌を歌おう。それはもしかしたら、誰かには哀しく聴こえるかもしれない。また誰かには痛く聴こえるかもしれない。また誰かには、ただの何処にでも在る、耳にも止まらないようなありきたりな歌に聴こえるかもしれない。それでも。私は私の歌を歌おう。私の体で。私の心で。私の声で。 |
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