2004年05月15日(土) |
真夜中の闇。開けた窓の向こうからは、通りを行き交う車の音が微風に乗って流れこんでくる。暗い橙色の色を放つ街燈が、その通りの向こう側にひとりぽつねんと立っている。眺めていると、何だか仲間のような気持ちがしてきて嬉しくなる。君と私、今、まっすぐに結ばれている。 娘の通う保育園では、母の日にはお母さんの顔を、父の日にはお父さんの顔を描くことになっている。私も先日、娘から手渡された。三つ編みをした、どう見ても私より若いかわいい女の人の絵。それから数日後、私は試しに訊いてみた。「ねぇ、保育園ではきっとお父さんの顔も描くと思うけど、描ける?」。娘は即答した。「うん、描ける」。「そっかぁ、じゃ、かっこいいの描いてね」「パパは髪の毛短いんだよね」「え? そう? 男の人の中では長かったような気が…」「ううん、短いもん」「そうか、じゃ、短い髪の毛描いてね」「うん、描けるもん」「…じゃ、その絵、サンタクロースさんに頼んでお父さんに渡してもらおうか?」「うん!じゃ、上手に描くね」「うん、楽しみにしてるね」。 翌日、保育園の先生に、今年も父の日にはお父さんの顔を描かせてやってくださいと伝える。「おじいちゃんの顔とかに変えた方がいいかなぁとかいろいろ考えていたところだったので、よかったです、じゃ、お父さんの顔ってことで」「あの、娘は保育園で父親の話とかしますか?」「ええ、時々しますよ」「どんなふうに?」「私たちには直接言ったことはないんですけれど、お友達と話してるとね、この間お父さんとこんなところへ行ったとか話してますよ」「え?」「普通に話してます、ええ」「…そうですか」。 私は、まさにその時絶句した。娘を後ろに乗せて家まで帰る道々、私の頭の中ではそのことがごろんごろんと音を立てて回っていた。 その日娘を寝かしつけた後、刀豆茶をすすりながら私はそのことを再び思い出す。この前はお父さんとこんなところに行ったんだよと話している娘の後姿が、あまりにもありありと私の中に現れてきた。そして、私は途方に暮れた。 嘘だ。そんなの嘘だ。正式に別れてから、私は娘と父親を一度たりとも会わせていない。そのことには私なりの理由があるからだが、でもそのせいでもしかしたら彼女は嘘をつくしかないところに追いこまれていたのだろうか。じゃぁ会わせればよかったのか? 頻繁に会わせていればよかったのか? いや、それも違う。そんな簡単なことじゃない、そんな簡単なことで片付くようなことじゃない。そんなことで片付くことなら、彼女はきっと最初から嘘なんてつかない。 私は思い出してみた。自分が幼稚園の頃どうだっただろう。小学校低学年の頃どうだっただろう。嘘をつく子供だっただろうか。 多分、幾つもの嘘をついてた。その頃父はほとんど家に不在だった。母は母で、自分の機嫌の波で私たちにやさしく当たる日もあれば、突っ放して背中を向けるしかない日もあった。こっちが望んでもいないのに、延々と愚痴を垂れ、しまいにはおまえがいなければ私は今頃こうなってたはずだったのに、と繰り返し言われる日々だった。 そんな中で私は確かによく嘘をついた。お母さんはこんなことしてくれる、お父さんはこんなことしてくれた、と。多分きっと、そうやってごまかして、友達の前でいかにもという家族の像を披露していた。要するに見栄を張ってた。友達の前で虚勢を張って、必死になって自分の領地を守ろうとしてた。嘘をつくことで何とか自分の領地を守りきろうと必死になってた。 もしかして娘は今、そういう状態なのだろうか? 娘のクラスで片親は今、娘しかいない。保育園の行事で必要なときには、お父さんの代わりに祖母や祖父が、私にとっての父や母が参加していたりする。そういう状態を、彼女は周囲に嘘を話すことで彼女なりにやりくりしていたということなのか。 いや、嘘なんて大げさに考えることがいけないのだろうか。彼女はただ、昔お父さんと出掛けたことを思い出し、そのことを話しているだけなのかもしれない。先生に尋ねてみようか? そのことを? いや、これ以上先生に話して彼女に対して偏見を持たれたらその方が辛い。じゃぁ私はどうすればいい?
答えなんて、正解なんて、何処にもない。 ただ私は、ショックだったのだ。娘に嘘をつかせる状況を、私たち周囲にいる大人が作ってしまっていたことに。
私は、深呼吸してみる。深く深く息を吸って、そして今度はゆっくりと吐き出してみる。すると、私が次にしたいことが浮かんできた。 娘を抱きしめてやりたい。 ただ、そのことのみ。そのことのみが、私の中ではっきりと、浮かんできた。
彼女の中で今父親というのはどんな姿をしているのだろう。私に知る由はない。ただ、彼女にとって父親は何処までいったって父親なのだということを私は今改めて痛感している。そうだろうことは分かっていたけれども、改めて今回のことを突きつけられ、私は痛感している。 でも、それでいいんだよ、娘。あなたが大事にしたいものはあなたが思う通りに大事にすればいい。何処までも引きずってゆくというのならそれもよし。私はここにいて、ここに在て、それを見てるよ。ちゃんと見守ってゆくよ。手伝いが必要なときには、必ず手を伸ばすよ。 私の中で幾つもの映像が飛び交う。ここ、パパと行ったよね、三人で来たよね。パパはこうやって座るんだよね、女の子はこういうふうには座らないんだよね。他愛ない日常の中で時々、本当に時々、そうやって私に言う。だから私も、そうだよね、三人で来たよねと返事をする。すると彼女は言うのだ。でも今は二人なんだよね。 そうだね、これからは二人だね、と返事をする時の、あのちくりとした痛み。誰が忘れるものか、あの切ないほどの小さな痛み。粉々に割れたガラスの破片を心臓が思わず踏んだ時のような。 私はだから抱きしめていよう。そういうのも一切合財含めて。抱きしめて抱きとめて、時に彼女の前を歩き、時に彼女の後姿を眺め、抱きしめていよう。これをもし誰かが荷物というのなら。 私は、荷物じゃぁないと答えよう。これが私の選んだ道なのだ、と。
街燈の灯りよ、もうしばし夜を照らしていておくれ。夜闇がゆっくりと溶け出してやがて朝が来る、そのときまでそこで道を照らし続けていておくれ。それがたとえこんなにも小さい灯りであったとしても、そこに君が在るというだけで誰かが安心する。それだけで誰かがその道を歩いてゆける。 街燈の灯りよ、多分私もその中の一人だ。おまえがそこに在るというだけで、心がこんなにも休まる。おまえはそんなこと、もしかしたらこれっぽちも考えることなく、ただそこにしんしんと佇んでいるだけなのかもしれない。それでも誰かがおまえをふり仰ぐだろう。あぁ、とため息をつきながら見上げるだろう。よかった、灯りがあったと、この道を往けばいい、と安堵のため息をつき、そしてまたそこから歩き続けられるだろう。 だから。そこで道を照らし続けておくれ。そして私はこうやっておまえを見つめながら思う。 そんな人に、私は、なりたい。
あの遠くはりめぐらせた 妙な柵のそこかしこから 今日も銃声は鳴り響く 夜明け前から 目を覚まされた鳥たちが 燃え立つように舞い上がる その音に驚かされて 赤ん坊が泣く たとえ どんな名前で呼ばれるときも 花は香り続けるだろう たとえ どんな名前の人の庭でも 花は香り続けるだろう
私の中の父の血と 私の中の母の血と どちらか選ばせるように 柵は伸びてゆく たとえ どんな名前で呼ばれるときも 花は香り続けるだろう たとえ どんな名前の人の庭でも 花は香り続けるだろう
あのひまわりに訊きにゆけ あのひまわりに訊きにゆけ どこにでも降り注ぎうるものはないかと だれにでも降り注ぎうる愛はないかと たとえ どんな名前で呼ばれるときも 花は香り続けるだろう たとえ どんな名前の人の庭でも 花は香り続けるだろう
ひまわり“SUNWORD”(中島みゆき 作詞・作曲) |
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